アパルトヘイトの終焉
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「南アフリカ共和国の歴史」の記事における「アパルトヘイトの終焉」の解説
1989年、ボータは病気により大統領を辞任し、フレデリック・ウィレム・デクラークが大統領に就任。デクラークは従来の対決路線から対話路線へと転換し、1990年2月11日にネルソン・マンデラを釈放。さらにオリバー・タンボやウォルター・シスルなど黒人指導者を釈放し、ANCは1990年8月に武装闘争を放棄。対話への道が開けた。これに対し、白人右翼の保守党やズールー人のマンゴスツ・ブテレジ率いるインカタ自由党が反対を表明し、政治暴力がナタールを中心に激化した。1991年にはデクラークは残りのアパルトヘイト諸法(原住民土地法、集団地域法、人口登録法)などを廃止し、1993年には核兵器所持を公表するとともにすべて廃棄した。1993年4月には全人種選挙を1994年4月27日に行い、5%以上の票を獲得した政党は連立政権に参加することで主要政党が合意。白人右翼のうち一部も自由戦線を結成して選挙に出馬し、さらに選挙の数日前に最後の有力勢力であったインカタ自由党も選挙参加を表明。選挙はおおむね平穏に行われ、アフリカ民族会議が62.5%を獲得して第一党となり、国民党が20.4%、インカタ自由党が10.5%を獲得して政権への参加資格を得た。これにより、ネルソン・マンデラが大統領、ターボ・ムベキとデクラークが副大統領に就任し、南アフリカ初の全人種政府が成立。アパルトヘイト体制は終わりを告げた。
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