アパルトヘイトについて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 16:32 UTC 版)
「デズモンド・ムピロ・ツツ」の記事における「アパルトヘイトについて」の解説
アレンはツツの運動を通じて実行されたテーマは、「民主主義、人権と寛容は、敵対する者どうしの対話と和解によって実現する」ということであったと述べている。 人種的平等は彼の中核的原則の1つであり、アパルトヘイト制度は断片的なやり方で改革されるのではなく、完全に破棄されなければならないと考えていた。彼は南アフリカとイギリスの双方で白人の人々との間に多くのポジティブな経験を持っていたため、白人少数派政府の下での経験にもかかわらず反白人派(anti-white)になることはなかった。彼は南アフリカの異なるコミュニティ間の人種的和解を促進し、ほとんどの黒人は基本的に白人と調和して生きることを望んでいると信じていた 。彼は常に非暴力行動主義に最大限の努力を払い、演説においても慎重であり、例え政府の政策の結果そうなると警告する時でも、脅迫や暴力を承認することは一度もなかった。にもかかわらず彼は、自らを平和主義者ではなく、「平和の人(man of peace)」と表現した。彼は例えば、ナチズムを止めるためには暴力が必要であったことを認めていた。南アフリカの状況では、彼は政府と反アパルトヘイト・グループの双方に対して暴力の使用を非難したが、南アフリカの白人が反アパルトヘイト・グループの暴力だけを糾弾する場合のようなダブルスタンダードに対しても非難した。アパルトヘイトを終わらせるため、彼は南アフリカに外国から経済的圧力をかけることを提唱した。この手法は南アフリカの貧しい黒人に更なる苦境をもたらすだけだろうと主張する批判者に対し、彼は黒人のコミュニティは既に重大な苦難の中にあり、将来の問題には少なくとも目的を持った方が良いと発言した。ツツはスピーチの中で、白人の人々ではなくアパルトヘイトそれ自体が敵なのだと強調した。彼は国内の白人コミュニティとの間に親善を育むことに挑戦し、白人が黒人の要求に譲歩した時には、個々の白人に対して謝意を強調した。また、多くの白人の聴衆に対して、「勝利者の側(winning side)」と表現する自身の主張を支持するよう促した。公的な祈りの時には、常に政治家や警察のようなアパルトヘイト制度を掲げる人々に、その制度の犠牲者と同様に言及し、全ての人間が神の子であるという見解を強調した。彼は「我々の土地に害をなした人々も、鬼や悪魔ではない。彼らは普通の人間であり、恐れているのだ。あなたが5倍以上の数の相手と対峙したならば、それを恐れないということがあるだろうか?」と述べた。ツツは南アフリカの国民党の思想におけるアパルトヘイトの精神(ethos)をナチ党の思想と比較し、アパルトヘイト政策をホロコーストになぞらえた。そしてホロコーストが全人口を駆逐するのに迅速でより有効な手法であったとし、一方で、食料へのアクセスと衛生に欠けた土地に黒人系南アフリカ人を強制移住させるという国民党の政策は概ね同じ結果をもたらしたと書いている。彼の言葉の中では「アパルトヘイトはナチズムおよび共産主義と同じく悪である」。 1980年代、彼は西側の政治指導者たち、具体的には南アフリカ政府との関係を維持しようとするレーガン、サッチャー、そして西ドイツのヘルムート・コールらを非難し、「人種差別的政策を支持する者はレイシストである」と規定した。ツツはかつてレーガンについて国民党政権に対する融和的なスタンスから「隠れレイシスト(crypto-racist)」であると考えていたが、「今は彼は単純で純粋なレイシストだと述べる」だろうとした。彼と妻は1960年代にイギリス首相アレック・ダグラス=ヒュームの連邦神学校での講義をボイコットした。ツツはこの行動の理由について、イギリスの保守党は「私たちの心に触れる最も重要な問題に関して忌まわしい振る舞いをした。」と記している。晩年にはまた、多数のアフリカの指導者たちを非難した。例えばジンバブエのロバート・ムガベに対して「アフリカの独裁者の出来損ない」であり、「明らかに気が狂っている」とした。
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