社会問題と国際問題
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「デズモンド・ムピロ・ツツ」の記事における「社会問題と国際問題」の解説
私は同性愛嫌悪者(homophobic)の天国へ行くことを拒否するだろう。いや、申しわけないが私は本気で言っているのだ。私はそれよりむしろ地獄を選ぶだろう。。私は同性愛嫌悪者であるような神を崇拝しない。この件について私はそれほど深く感じているのだ。私はアパルトヘイトについて今までしてきたことと同じようにこのキャンペーンに情熱を持っている。私にとっては同じレベルだ。 ツツ (2013年) アパルトヘイトの終焉の後、ツツの同性愛者に関する人権活動家としての地位は、聖公会が直面している他の問題(英語版)のどれよりも、彼を人々の注目の対象としていた。ツツはホモセクシュアルに対する差別を黒人や女性に対する差別と同等のものであるとみなした。彼はスピーチと説教を通じて自分の見解を広めた。1998年のランベス主教会議で同性間の性交渉に対する教会の反対が確認された後、ツツはジョージ・キャリーに「私は聖公会の信徒であることを恥じている」と述べた。アメリカとカナダの教会がLGBの権利に賛成を表明すると、保守的な聖公会信徒はそれらの教会をアングリカン・コミュニオンから追放することを主張した。ツツはカンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズがあまりにも容易にこの動きに同調したとみなしていた。ツツは、保守派がアングリカン・コミュニオンの包括性を厭うならば、彼らはいつでも「自由に去る」ことができるという見解を表明した。2007年、ツツはホモセクシュアルの問題に執着する教会を非難し、「もし神が、彼らが言うように同性愛嫌悪者(homophobic)ならば、私はその神を崇拝しないだろう」と宣言した。ツツは、反同性愛者法は将来アパルトヘイトの法律と同等の過ちとみなされるだろうと語った。ツツはまた南部アフリカ聖公会での同性結婚を支持している。 ツツはまた、エイズのパンデミックと闘う必要性について意見を述べ、2003年7月に「アパルトヘイトは私たちの国民を破壊しようとし、そしてアパルトヘイトは失敗した。もし我々がエイズに対して行動しないならば、それは成功してしまうだろう。それは既に我々の人口を減らしているからだ。」と述べた。2005年4月20日、ジョセフ・ラッツィンガー枢機卿がベネディクト16世として教皇に選出された後、ツツは彼がローマ・カトリック教会がアフリカにおけるエイズとの戦いにおいて、コンドームの使用反対の立場を変えることはあり得そうにないことから、「我々が求めていた新教皇は、世界で起きている最近の発展や、女性聖職者問題や、コンドームやエイズに関する合理的な立場を、もっと積極的に受け入れる人物だったのではないだろうか」と、悲しみを述べた。2006年、ツツは全ての子供を出生時に登録するようにするためのグローバル・キャンペーンを開始した。これはプラン・インターナショナルによって組織されたものであり、未登録の子供は公式には存在しなかったため、人身売買業者や災害に対して彼らが無防備であったためである。 ツツはイスラエルとパレスチナの紛争に対する関心を持ち続け、オスロ合意が調印された後、テルアビブに招待され、ペレス平和センター(英語版)に出席した。彼は2000年のキャンプ・デーヴィッド会議(英語版)で合意がなされなかったことにますます不満を募らせた。2002年、彼はパレスチナ人に対するイスラエルの政策を非難するスピーチを広く公開し、イスラエルに対して制裁を課すように呼び掛けた。彼はイスラエルとパレスチナの状況を南アフリカと比較し、「我々が南アフリカで成功した理由の1つで中東に欠けているものは、リーダーシップの質である。自らの選挙区民に不人気な妥協を行うことを厭わず、それが最終的に平和を可能とすることを見通す知恵を持っている指導者が不在なのだ。」と述べた。 2003年、彼はノースフロリダ大学に在籍する学者であった。2月には、彼はアメリカのイラク戦争計画に反対するニューヨークのデモに参加した。この行動は、南アフリカに関係しない抗議行動に参加しないという彼の一般的信条を破るものであった。ツツはコンドリーザ・ライスに電話をかけ、アメリカ政府が国連安保理の決議なしに開戦へと向かわないように促した。ツツはイラク戦争開戦以来断固たる反対論者であり、この戦争は「歴史上の他のあらゆる紛争よりも大きな規模で、世界を不安定化させ分裂させた。」と述べた。2012年9月、ツツはアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュとイギリス首相トニー・ブレアが、この紛争で果たした役割について国際刑事裁判所で審理に掛けられるべきだと訴え、彼らに「自らの行動の責任を取らせる」べきだと述べた。ツツはヨーロッパ、インド、パキスタンにもまた多くの大量破壊兵器が存在するのに、なぜイラクだけが選び出されたのかと疑問を投げかけた。2012年、ツツはブレア前首相のイラク攻撃という「道徳的に弁解の余地がない」決定に触れ、ブレアが登場する予定だった南アフリカでのイベントから手を引き、彼に戦争犯罪の疑いで、ハーグでの裁判に臨むよう呼びかけた。2007年、ツツは人々が絶望的な条件で生きているならば、世界での「テロとの戦い(war on terror)」に勝利することはできないと述べた。2004年、ツツはニューヨーク市のオフ・ブロードウェイの、『Guantanamo - Honor-bound to Defend Freedom(英語版)』という劇の公演に出演した。この劇はグアンタナモ湾におけるアメリカの拘留者の扱いを強く批判するものであった。ツツは拘留制度の法的正当性に疑問を持つ裁判官ジャスティス・ステイン卿の役を演じた。2005年1月、彼はキューバのグアンタナモ湾にあるCamp X-Ray(英語版)でのテロ容疑者拘留に対する異議を表明し、ここで行われている裁判なしの拘留は「全く認められず」、これはアパルトヘイト時代の拘留と同種のものであると述べた。彼はまたイギリスが裁判なしで28日間テロリストを拘留する制度を導入したことも非難した。 2004年、ツツは60年前に住んだソフィアタウンのキリスト・ザ・キング教会で初の講演を行い、およそ10年間の間に南アフリカが達成した成果をたたえたが、人々の間の富の格差が拡大していることを警告した。彼は政府の軍事支出、ジンバブエにおけるムガベ政権の政策、そしてングニ語話者が上級の地位を支配するあり方に疑問を呈し、後者の問題は民族間の緊張をかきたてると述べた。彼はこの3つの点について同じことを、後にヨハネスブルクで毎年行われているネルソン・マンデラ講演会(Nelson Mandela Lecture)の時に述べている。講演の席でツツは、ムベキ指導下のANCが、メンバー内での「ごますり、追従、服従(sycophantic, obsequious conformity)」を要求していることを非難した。ツツとムベキは長期にわたり緊張関係にあった。ムベキはツツがTRCを通じてANCのアパルトヘイトに対する武装闘争を犯罪として扱っていることを批判し、ツツはムベキがエイズのパンデミックを積極的に放置したことを嫌悪した。ムベキは前任者のマンデラと同じように、ツツがポピュリストであると批判し、更にANC内の働きを理解していなかったと主張している。ツツは後にANC指導者で南アフリカ大統領のジェイコブ・ズマを非難し、2006年には、ズマが強姦と汚職のために告訴されていたことから、立候補しないように促した。 2003年、ツツは国際刑事裁判所の被害者基金(Trust Fund for Victims)の理事に選出された。2006年には、虐殺防止に取り組む国連諮問委員会のメンバーに指名された。 ツツはガザ地区のベイト・ハヌーン(英語版)での国連実情調査団の団長に選ばれた。ここでは、イスラエル国防軍がこの街からのパレスチナ人によるロケット攻撃(英語版)を抑えることを目的として、1週間にわたり侵攻した後、2006年10月の事件(英語版)で、19人の市民を殺害していた。 国際連合人権理事会理事長のルイス・アルフォンソ・デ・アルバ(英語版)によると、ツツは「犠牲者の状況を評価し、生存者のニーズに応え、更なるイスラエルの攻撃からパレスチナ市民を守る手段についての勧告を行う」ために、パレスチナ側の領土への視察を計画した。イスラエルの当局者は、この報告書がイスラエルに対して偏向したものになる可能性について懸念を表明した。12月半ばにツツはこの視察を取りやめ、1週間以上の議論の末にイスラエルが必要な旅行許可を出さなかったことを話した。 2009年、ツツは同名の南アフリカの組織の例に倣い、ソロモン諸島の真実和解委員会(英語版)の設立を支援した。2009年4月29日、彼は委員会の公式発足時にホニアラで、最終的な平和の確立には赦しが必要であることを強調する発言を行った。彼はまた、コペンハーゲンで開催された国連気候変動会議に出席し,、アパルトヘイト時代の南アフリカに対する投資引き上げになぞらえて化石燃料ダイベストメント(英語版)を広く呼びかけた。 2007年、ツツは、世界で最も困難な諸問題に取り組むために、知恵、慈愛、リーダーシップ、誠実さを提供する世界の指導者たちのグループである、The Elders(英語版)の議長であることが宣言された。ツツは2013年5月までこの職務で手腕を振るった。辞任し、名誉エルダー(Honorary Elder)となると、彼は「議長としての素晴らしい6年間の後、辞任すべき時が来たと告げるのは悲しいが、エルダーとして、我々は常に終身の指導者に反対すべきである。」と述べた。ツツはThe Eldersを率いて2007年10月に(このグループが創設されてから最初のミッションとして)ダルフール危機の和平を促進するため、スーダンを訪問した。ツツは「我々の望みは、我々がダルフールにスポットライトを当て続け、この地域で平和を維持するために政府を支援することである。」と述べた。彼はまた、Eldersの代表団と共に、コートジボワール、キプロス、エチオピア、インド、南スーダン、そして中東を訪れた。ツツは特にThe Eldersが提案した児童結婚についてのイニシアティヴに関与し、「Girls Not Brides:児童結婚を終わらせるためのグローバル・パートナーシップ」を立ち上げるため、2011年9月にニューヨークのクリントン・グローバル・イニシアティヴに参加した。 2007年、ツツは南アフリカのジンバブエ大統領ロバート・ムガベの政府に対する「静かな外交(quiet diplomac)」政策を批判し、南部アフリカ開発共同体に、ムガベのジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線(英語版)と反政府の民主変革運動(英語版)の間で対話を行うことと、この行動の明確な期日(firm deadlines)を定めること、これがなされない場合には強硬な手段を取ることを呼びかけた。2008年、彼は国際社会にジンバブエに介入するよう、さらに必要に応じて軍事的手段を取るよう呼びかけた。一方のムガベはツツを「怒りっぽい、邪悪で敵意に満ちた小主教(angry, evil and embittered little bishop)と呼んでいる。2008年のチベット騒乱の間、ツツはダライラマ14世を称え、中国政府は「(彼の)声を聴くべきだ...これ以上の暴力を止めよという声を。」と発言した。彼は後にある集会において、「美しいチベットの人々の繁栄のため」に、2008年北京オリンピックの開会式に出席しないように世界各国の首脳に呼びかけた。ダライラマ14世は2011年10月7日に開かれたツツの80歳のバースデイパーティに出席するためのビザを南アフリカに拒否された。
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