社会問題への関心、反ファシズム
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「ドラ・マール」の記事における「社会問題への関心、反ファシズム」の解説
一方、モード雑誌の写真家として活動を開始したドラ・マールだが、市民生活を撮影したバルセロナの写真では社会問題に対する関心が伺われ、このような関心からやがて反ファシズムの運動に参加することになった。フランス右派・極右勢力がナチスによるドイツ制覇に連動して民衆を扇動して起こした暴動(1934年2月6日の危機)を受けて左派知識人により反ファシズム知識人監視委員会が結成されたときには、アンドレ・ブルトンとルイ・シャヴァンスの提案による反ファシズム宣言「闘争の呼びかけ」に署名した。また、この一環として4月18日に「統一行動に関する調査」と題する小冊子を配布した際には、ブルトン、ジャン・カスー、アンドレ・マルロー、ジョルジュ・ユニエ(フランス語版)、マルセル・ジャン(フランス語版)らの作家・画家とともにこの冊子を作成した。 ブルトンを中心とするシュルレアリスムの運動に参加したのもこうした活動を通してであった。1935年にはブルトンとジョルジュ・バタイユによる反ファシズムの革命運動「コントル・アタック(Contre-attaque、反撃)」に参加し、また、彫刻家アルベルト・ジャコメッティのアトリエで撮影した作品《不可視のオブジェ》は、まずシュルレアリスムの雑誌『ドキュマン34』に、次いで1937年刊行のブルトンの著書『狂気の愛』に掲載された。 同じ1934年に親友ジャクリーヌ・ランバがブルトンと結婚し、同じくシュルレアリスムの運動を牽引した詩人ポール・エリュアールは彼がヌーシュ(フランス語版)と名付けたアルザス生まれの女優マリア・ベンツと結婚した。特にエリュアール夫妻とはドラ・マールがこの後ピカソの愛人となってから4人で旅行をするなど最も親しく付き合い、ドラ・マールはヌーシュの写真を多数撮影した。これにはヌーシュの顔写真に蜘蛛の巣を重ね合わせたフォト・モンタージュの代表作も含まれる。また、ドラ・マールは、スペイン内戦中のゲルニカ爆撃に抗議するピカソの《ゲルニカ》(1937年)の制作過程を写真に収めたことでも知られるが、エリュアールはこれに合わせて詩「ゲルニカの勝利」を発表した。 ドラ・マールがもう一つの代表作であるアシア・ハラナトロフ(Assia Granatouroff)のヌード写真を撮影したのも1934年から35年にかけてであった。これはドラ・マールの名前で発表し、他のケフェール=ドラ・マールの作品と併せて、団体展に出展された。団体展にはジャン・モラル(フランス語版)、ロール・アルバン=ギヨー(フランス語版)、ピエール・ブーシェ、エリ・ロタール、ダニエル・マスクレ(フランス語版)らフランスの写真家だけでなく、戦間期にフランスで活躍したアメリカの写真家フローレンス・アンリ、欧州におけるファシズムの台頭に伴ってフランスに亡命したハンガリーの写真家ノラ・デュマ(英語版)、エルジー・ランドー(フランス語版)、ケルテース・アンドル、ドイツの写真家ジェルメーヌ・クルル、イルゼ・ビング(フランス語版)、オーストリアの写真家イーラ(フランス語版)らも参加した。
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