スペイン内戦中(1937-1939)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 09:04 UTC 版)
「サッカーバスク代表」の記事における「スペイン内戦中(1937-1939)」の解説
初代レンダカリ(バスク自治州政府首班)であるホセ・アントニオ・アギーレは、かつてアスレティック・ビルバオの選手だった。スペイン内戦中の1937年、アギーレは軍事資金集めのためにバスク選抜を組織し、以下の選手が選出された。 ポジション選手所属クラブGK グレゴリー・ブラスコ アスレティック・ビルバオ ラファエル・エグスキーサ アレナス・クルブ・デ・ゲチョ DF セラフィン・アエド レアル・ベティス ペテル・アレーソ FCバルセロナ パブリート・ボーツ 不明 MF レオナルド・シラウレン アスレティック・ビルバオ ホセ・ムゲルサ アスレティック・ビルバオ ペドロ・レゲイロ レアル・マドリード ロベルト・エチェバリア アスレティック・ビルバオ アンヘル・スビエタ アスレティック・ビルバオ サビーノ・アギーレ ニーム・オリンピック(フランス領バスク) エンリケ・ラリナガ ラシン・サンタンデール FW ホセ・イララゴッリ アスレティック・ビルバオ エミリーネ・アロンソ レアル・マドリード イシドロ・ランガラ レアル・オビエド ルイス・レゲイロ レアル・マドリード チッリⅡ 所属クラブなし ホセ・マヌエル・ウルキオーラ アトレティコ・マドリード ギジェルモ・ゴロスティサ アスレティック・ビルバオ 監督 ペテル・バリャーナ - マッサージ師 ペリコ・ビリチナーガ - 代表 リカルド・イレサバル - バスク選抜は海外遠征でも資金集めをもくろみ、フランスを皮切りに東欧・北欧を転戦した。1937年4月にはパリのパルク・デ・プランスでフランスのクラブと2試合を戦い、フランス王者のラシン・パリには3-0で勝利し、オリンピック・マルセイユには5-1で勝利した。初敗北は2-3で敗れたチェコスロバキア代表戦だった。FCロコモティフ・モスクワ(当時ソビエト連邦、現ロシア、5-1)、マルセイユ(5-2と1-3)、チェコスロバキア代表(1-2)、シレジア選抜(現在のポーランドやチェコにあたる地域、5-4)、ロコモティフ・モスクワ(当時ソビエト連邦、現ロシア、5-0)、FCディナモ・モスクワ(当時ソビエト連邦、現ロシア、1-0)、FCディナモ・レニングラード(当時ソビエト連邦、現ロシア、2-2)、FCディナモ・キエフ(当時ソビエト連邦、現ウクライナ、3-1)、FCディナモ・トビリシ(当時ソビエト連邦、現ジョージア、2-0)、グルジア代表(3-1)、FCスパルタク・モスクワ(当時ソビエト連邦、現ロシア、6-2)、ディナモ・モスクワ(7-4)、FCディナモ・ミンスク(当時ソビエト連邦、現ベラルーシ、6-1)、ノルウェー代表(3-1)、ノルウェー労働者選抜(3-2)などと戦い、デンマーク代表には11-1で大勝した。同年6月にビルバオがフランコ軍に占領されると、バスク選抜は大西洋を渡ってメキシコを訪れ、17試合を戦って13勝を挙げた。さらにキューバではフヴェントゥ・アストゥリアーナ戦(4-4)を除く全試合に勝利した。CDエウスカディ(Club Deportivo Euzkadi)という名称でメキシコのアマチュアリーグに参加し、17試合で13勝1分3敗の成績を挙げた。1938-39シーズンのメキシコ・アマチュアリーグにはCDエウスカディの他にも、レアル・クルブ・エスパーニャとアストゥリアスFCというイベリア半島からの移民に由来する2チームが参加している。バスク選抜のウェブサイトではCDエウスカディが優勝としているが、メキシコサッカー連盟のウェブサイトではアストゥリアスFCが優勝としている。スペイン内戦が終結するとチームは解体され、各々の選手には10,000ペセタの報奨金が渡された。何人かの選手はアメリカ大陸に残り、ラテンアメリカのクラブでプレーし続けた。
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