アパルトヘイト撤廃を支持
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 09:30 UTC 版)
「ユルゲン・シュレンプ」の記事における「アパルトヘイト撤廃を支持」の解説
ユークリッドへの出向を終えたシュレンプは、現職の支社長の退任時期が重なったことと本社からの推薦もあって1985年4月にメルセデス・ベンツ・オブ・サウスアフリカの会長兼CEOに就任した。アパルトヘイト撤廃についての論議が南アフリカの国内外で盛んだった時期の就任であり、ダイムラー・ベンツとしても同地に留まるか撤退すべきかの議論がされていたが、シュレンプは留まるべきとの主張を展開した。そのこと自体は支持されたものの、同時に、シュレンプは同国のアパルトヘイト体制を批判し、現地でも社外の黒人勢力や社内の黒人労働者たちとの融和を図り、こうした姿勢はダイムラー・ベンツ本社の一部の重役たちからの批判を招いた。その急先鋒となったのは販売部門担当の取締役であるハンス・ユルゲン・ヒンリックス(ドイツ語版)である。南アフリカにおけるメルセデス・ベンツ車の購入者はほぼ全て白人の富豪であり、「白人政府」の政府関係者、公的機関(軍隊を含む)も大口の顧客であり、企業としては「白人政府」を支持するのが妥当だとヒンリックスは主張し、そうした重役たちとシュレンプは対立することとなる。 シュレンプは世界最大の単一労働組合であるIGメタル(英語版)の有力者フランツ・シュタインキュラー(英語版)と協力し、南アフリカのダイムラー・ベンツ工場であるイースト・ロンドン工場で、全ての現地従業員にドイツで与えられているのと同じ労働者としての権利を保障した。シュレンプが南アフリカ支社を去った後のことになるが、この時の貢献はアパルトヘイト廃止後に南アフリカ共和国の大統領となったネルソン・マンデラ、タボ・ムベキらから感謝され、後にシュレンプは「南アフリカにとって最も親しいビジネスパートナー」と呼ばれるようになった。 シュレンプが採った方針は白人たちからは(当然)好まれなかったため、南アフリカ支社の経営には逆風となり、ブライトシュベルト体制下のダイムラー・ベンツグループ全体では売上も利益も増加していた時期だったにもかかわらず、南アフリカ支社は低迷し、多額の営業損失を計上した。 支社の業績は不振だったが、シュレンプの経営手腕に興味を持っていた上層部の意向により、1987年にシュレンプはドイツのダイムラー・ベンツ本社に呼び戻された。同年9月に本社に戻ったシュレンプは同社の取締役会の副メンバーとなり、まずは新設された商用車部門の営業部長を任され、1989年4月に正式に取締役の一人となった。
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