人種的アイデンティティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 23:25 UTC 版)
「カラード (南アフリカ共和国)」の記事における「人種的アイデンティティ」の解説
南アフリカと近隣諸国において、少数の白人による政権は、歴史的に非白人を白人から隔離する方針を取った。それに伴い、混血の人間達は各々が形成された人種的かつ歴史的な背景に大きな違いがあるにも関わらず、全員が一括りに「カラード」として分類される事となった。 それでも、19世紀末頃にコイコイ人ないし元奴隷とその子孫であるカラード達は、社会におけるステータス・アフリカーンス語を共通言語とする事・生活空間の近接性といった要素により、「先住民」とは区別される「カラード」としてのアイデンティティを、ある程度にまで共有するようになった。 第二次世界大戦後の南アフリカではアパルトヘイトが制定され、政府は「カラード」という用語を使用して、法律で定義された4つの主要な人種グループの1つとした。これは、白人至上主義と人種隔離の方針を維持するための取り組みであり、南アフリカ国民は「白人」「アジア人(主にインド系住民)」「カラード」「黒人」に分類される事となった。 アパルトヘイト施政下において、多くのカラード達は、白人への近接性を強く望む一方で、「十分に白くない」事による劣等感に苛まれるようになった。それ故、近い祖先に白人がいる世帯では、その繋がりを強調すべく、自宅にその写真を飾るようになった。また、外見の面でもカポイドと関連付けられたその容姿が差別の対象となった事から、多くの女性は毛髪にストレートパーマをあてるようになり、富裕層の中には鼻を整形する者もいた。こうしたカラードの人種意識は、「白人」に近似する事によって、より多くの特権に与れるという物質的なインセンティブに起因するものとされている。実際に、第二次世界大戦前までは、白人と色の薄いカラードの結婚も珍しくなく、人口登録法において「カラード」ではなく「白人」に分類され、白人社会に溶け込んだ人々も多く存在した。 1991年に人口登録法は廃止されたにも関わらず、「白人」「アジア人(主にインド系住民)」「カラード」「黒人」から成る4つの民族集団は、依然として強い人種的アイデンティティを持ち、自分自身や他の人々をいずれかの集団のメンバーとして分類する傾向があり、その事は同国の文化(英語版)や黒人経済力強化政策(英語版)に代表されるアファーマティブ・アクションといった、政府の政策にも根深い影響を残し続けている。
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