人種的構成および祖先
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 03:04 UTC 版)
「ミシシッピ州」の記事における「人種的構成および祖先」の解説
2010年国勢調査に拠れば、ミシシッピ州の人種による人口構成は次のようになっている。 白人 (a)59.1% 黒人 (a)37.0% アメリカインディアン、およびアラスカのインディアン、エスキモー(a)0.5% アジア人 (a)0.9% 太平洋諸島人 (a)0.1%未満 混血1.1% ヒスパニックないしラティーノ (b)2.7% 白人 (ヒスパニックとラティーノを除く)58.0% (a) 1つの人種だけを回答した者だけの割合。 (b) ヒスパニックは人種概念ではないため、同時にいずれかの人種に属する。 1830年9月27日、ダンシングラビット・クリーク条約がアメリカ合衆国政府とチョクトー族の間で結ばれた。チョクトー族はミシシッピ州とアラバマ州にあった先祖伝来の土地の売却に合意した。これと引き替えに補償金とインディアン準州(現在のオクラホマ州)の居留地への移住が待っていた。これによりヨーロッパ系アメリカ人開拓者への土地公売が解禁された。条約の第14条では、州内に残留するチョクトー族はアメリカ市民になることを認めている。チェロキー族に続いて非ヨーロッパ系民族となることを選んだ2つめの部族だった。今日、約9,500人のチョクトー族が、ネショバ郡、ニュートン郡、リーク郡、ジョーンズ郡に住んでいる。連邦政府から認められた部族には、チョクトー族ミシシッピ・バンドがある。 南北戦争以前から1930年代まで、アフリカ系アメリカ人がミシシッピ州人口の過半数を占めていた。1940年代以降、黒人大移動により、36万人以上のアフリカ系アメリカ人が州を離れ、北部、中西部および西部へ新たな機会を求めて移住し、アフリカ系アメリカ人人口は大きく減少した。 それでも2010年時点でミシシッピ州におけるアフリカ系アメリカ人構成比は国内最高である。近年、その構成比は高くなりつつあり、これは白人よりも平均年齢が若いことが寄与している(生涯出産数はほぼ等しい)。州内公共教育学区のほぼ全ては、アフリカ系アメリカ人の生徒が多数となっているが、ヨーロッパ系アメリカ人が多数であることも多い。北西部のヤズー・デルタ、南西部および中央部ではアフリカ系アメリカ人が多数派である。これらの地域では、南北戦争後の19世紀にアフリカ系アメリカ人が農夫として土地を所有し、あるいは綿花プランテーションや農場で働いた歴史があった。 2000年に州内で申告された祖先による構成比は以下の通りだった アメリカ人 (14.2%) アイルランド系 (6.9%) イギリス系 (6.1%) ドイツ系 (4.5%) フランス系 (2.3%) スコットランド・アイルランド系 (1.9%) イタリア系 (1.4%) スコットランド系 (1.2%) スコットランド・アイルランド系、イギリス系、スコットランド系を先祖に持つと申告した者は州内全体に分散している。これらの民族に属する者は実際には数字よりもかなり多いと考えられている。大西洋岸南部や東南中央部の州では概してこの傾向がある。歴史家のデイビッド・ハケット・フィッシャーは、ミシシッピ州人口の少なくとも20%はイギリス系アメリカ人であって、この数字は実際にはもっと高く、またかなりの比率でスコットランド系アメリカ人がいると推計した。イギリス系やスコットランド系の州民の多くは、18世紀後半から北アメリカに来て長くなっているので、単にアメリカ人と回答したものとしている。1980年の国勢調査で、総人口1,946,775人の内、656,371人がイギリス系と申告し、構成比は38%になっていた。 フランス系クレオール人は、メキシコ湾岸のハンコック郡で大きな構成比を占めている。アフリカ系アメリカ人、ネショバ郡に多いチョクトー族、中国系アメリカ人はほとんどが州内で生まれた者である。 中国人の中には1870年代と19世紀末にキューバから年季奉公者として連れてこられた者がいるが、大多数は1910年から1930年に掛けて、中国から直接州内に労働者として入ってきた。農園主はまず小作人として中国人を雇ったが、大半は間もなくその職を離れた。多くの者はデルタ地帯の町で商人、特に食料雑貨商となった。小さな町が衰退すると、都市に移動するか、州を離れた。
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