1940年代以降
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2016年の国際シンポジウムでは、グレート・アクセラレーションの開始時期にあたる1950年代を区切りとする意見も示された。この年代は、大気中核実験や安価な原油を利用した工業化による大量生産・大量消費、地球規模の大衆化による人工物質の増大、化学肥料・農薬・品種改良による食糧生産の増大や抗生物質による感染症の予防によって平均余命や人口過多が顕著となる時代にあたる。国を超えた広域汚染として最初に問題とされたのは、酸性雨だった。1972年から初の環境問題の国際会議として国際連合人間環境会議が始まり、ヨーロッパと北米で対策が進んだ。 2015年1月、層序学の観点から人新世を検討する人新世ワーキング・グループ(英語版)(AWG)のメンバー38人中26人が、提案された新時代の出発点として1945年7月16日に行われた最初の核実験であるトリニティ実験を示唆する論文を発表した。しかし、人類が土壌の改変を始めた時期などを支持する少数派もいる。2019年6月時点で批准プロセスは継続中であり、1945年のトリニティ実験が他の案よりも有力である。2019年5月、AWGは20世紀半ばを開始年代とする票決を行ったが、2021年まで最終決定は行われない模様である。トリニティ実験以降の核実験や原子力発電所の事故、産業による化学物質は人類の身体に影響を及ぼし、放射線障害や公害病を引き起こした。
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1940年代以降
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「グレート・アクセラレーション」の記事における「1940年代以降」の解説
石油を中心とする工業化による大量生産・大量消費、緑の革命とも呼ばれる食糧生産の増大、平均余命の上昇が顕著となった。グレート・アクセラレーションの開始時期にあたる1940年代から1950年代は、人新世の開始時期としても有力とみなされている。 経済成長はアメリカ合衆国が著しかったが、1950年代以降に縮小も見られた。1992年時点では、アメリカと西ヨーロッパの1人あたりの所得格差は1.2:1、アメリカと南ヨーロッパの格差は1:2となった。アメリカとアジアは1950年の11:1から1992年には4:1に縮まり、この時期に最も成長したのは韓国、台湾、タイだった。長期的な経済格差は依然として拡大傾向にあり、1950年に富裕国と途上国の所得格差は35:1で、1992年には72:1へと拡大した。所得格差は消費の格差をもたらしており、21世紀初頭の全人口の45%にあたる貧困層の人々の排出量は7%だが、最富裕層にあたる7%の人々の排出量は50%となっている。GDPを基準にして経済成長を測ることが続いているが、経済成長の要因については不明点が多い。2006年に世界銀行のもとでノーベル経済学賞受賞者を含む21人の専門家や300人の研究者が参加した報告書では、経済成長をする一般原則は存在しないという結論となった。 対外直接投資(FDI)は20世紀初頭にイギリスからアメリカに中心が移り、第二次大戦後もアメリカが最も多額で、1967年には世界のFDIの53.8%に達した。1970年代にヨーロッパと日本のFDIが急増し、原因は相手国の輸入規制によって輸出が減少したためだった。先進国は輸出の代わりにFDIによって進出し、アメリカのM&Aを参考にした。1980年代以降は世界的にFDIが急増し、OECDを中心とする先進国間で相互浸透が進み、特に1985年のプラザ合意以降は日本が急増した。急増の一因として、環境問題によって先進国の公害基準が厳しくなった点がある。先進国の企業は公害基準のゆるい途上国にFDIで進出し、公害輸出とも呼ばれる。1990年代以降は中国、NIES、ASEAN諸国の高成長によってFDIが増加を続けた。 大量生産と大量消費によって、1950年代以降に公害病などの問題が世界各地で起きた。化学物質による生態系の汚染について、生物学者のレイチェル・カーソンは、著書『沈黙の春』(1962年)において問題提起をした。環境問題については1国単位ではなく国際的な対策が進んだ。1972年に初の環境問題の国際会議である国際連合人間環境会議が始まり、1987年の二酸化硫黄の削減協約、1991年の窒素酸化物の削減協約、1992年の国連気候変動枠組条約、1997年の京都議定書、2009年の気候変動枠組条約締約国会議(COP15)などが続いた。
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1940年代以降
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「アルゼンチン・タンゴ」の記事における「1940年代以降」の解説
アルフレド・ゴビ、フリオ・デ・カロ、カルロス・ディ・サルリに代表されるモダン・タンゴの時代が幕を開くことになる。伝統タンゴによって守られていたスピードは急激に上げられ、その限界に挑戦するファン・ダリエンソスタイルが一世を風靡する。この時代を決定づけるものは、録音技術の向上を意識した音楽様式の変化である。音色が立体的に造形されていることをレコードが初めてとらえるようになり、「極端なまでのレガートとスタッカート(Di Sarli)」・「リズムパターンの鋭い交代(De Caro)」・「楽器編成の拡張(Canaro)」・「ジャズのテンションコードの導入(Francini=Pontier)」、「楽器編成または音色の対比(Gobbi)」など、次々と新発明を施してはタンゴのイディオムを広げていった。この時期は競争が最も激しく、どこかの楽団に入っては出るを繰り返すといったメンバーも相当数に上っており、ダリエンソに至ってはダリエンソ以外全員脱退という事件も起こしている。ただし、このような楽団のメンバーの著しい変更こそがモダン・タンゴの起爆剤になったことは否定できず、このころ裏方の編曲に回って腕を磨いたのがオラシオ・サルガンである。タンゴに電子機器を用いることを決断したのがフランシスコ・カナロであり、カナロがハモンドオルガンを操っているジャケットや電子楽器を使ったと思われるテイクも存在する。 1944年にはオルケスタ・ティピカ・ヴィクトルが活動を終了し、古典タンゴの時代は終わったとまで称された。1950年代に入るとかつてのスペイン来訪で知られた国・日本が戦時統制の枷から抜け出し、自前のタンゴ楽団を抱え、タンゴ番組がラジオでかかり続けるという爆発的な流行を迎えた。演奏家の質も向上し、「オルケスタ・ティピカ・東京」・「坂本政一とオルケスタ・ティピカ・ポルテニヤ」は人気を博し、「オルケスタ・ティピカ・ポルテニヤ」は現地民の要求に合わせたアレンジが高い人気を国外でも誇った。彼らはタンゴの衰退期に入った1960年代に入っても活動をつづけ、あまりの出演過多に悩んだ坂本政一は日本へ帰国してタンゴ低迷期には忘れ去られたが、早川真平はそうなることを免れた。 この時期に入るとアコーディオンは完全に除去されバンドネオンにとって代わるようになった。トロイロ=グレラ四重奏団は単なる偶然からできたバンドネオンソロ、ギタロン、ギター、コントラバスという編成だが、ギターのタンゴ演奏の復活に大きく寄与した。もともとタンゴの終止にルールのようなものはなかったが、ダリエンソは音を丸々カット、プグリエーセは終止の前拍の強調、デ・カロはACCELを加えたそっけない打ち方、など各楽団ごとに個性がみられるようになる。ディ・サルリが1960年に死去したことで、タンゴの黄金期は終わりを迎えた。1950年代の「日本第二次タンゴブーム」もNHKのラジオ番組の打ち切りとともに終わった。
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1940年代以降
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その後の活動状況は不明。第二次世界大戦(太平洋戦争)が勃発、1942年日系人の強制収容が始まると西海岸の日系人を中心に強制収容所送りとなっている。なお銭村には収容所内で野球をしていた記録がある。
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1940年代以降
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「ゾラ・ニール・ハーストン」の記事における「1940年代以降」の解説
1939年に『出エジプト記』、『レヴィ記』、『民数記』、『申命記』などに基づいてモーセの生涯をたどった小説『山の人モーセ』、1942年に自伝『路上の砂塵』、1948年にフロリダを舞台に貧しい白人女性を描いた最後の小説『スワニー川の熾天使』を著した。この小説で白人女性を主人公に設定したのは、ワーナー・ブラザーズによるハリウッド映画化の可能性を視野に入れてのこととされる(実現しなかった)。 この間、ホンジュラスやバハマでフィールドワークを続け、ノース・カロライナ黒人カレッジ(現ノース・カロライナ・セントラル大学(英語版))、フロリダ師範専門学校(現フロリダ・メモリアル大学(英語版))などの講師を務め、モーガン州立大学(英語版)の名誉博士号、人種主義の問題に取り組み、文化の多様性に資する作品に与えられる「アニスフィールド・ウルフ出版賞(英語版)」、ハワード大学優秀卒業生賞などの栄誉を受けているが、一方で、出版社に持ち込んだ原稿が拒否されることが重なり、生活が苦しくなったため、代替教員、書店の店員、家政婦などの仕事もした。 1959年、脳卒中で倒れ、10月末にセントルーシー郡福祉ホームに入所し、翌1960年の1月28日に死去、享年69歳。フォートピアスの「永遠の園」墓地に埋葬された。葬儀費用は近所の人々が出し合ったが、墓石を建てる費用までまかなうことはできなかった。
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