1940年代:大戦と戦後
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「フランシス・プーランク」の記事における「1940年代:大戦と戦後」の解説
プーランクは第二次世界大戦中もしばしの期間を従軍して過ごしている。1940年6月2日に召集を受け、ボルドーの防空部隊に所属した。ドイツへの降伏後の1940年7月18日にプーランクは動員を解かれることになった。同年の夏は家族や友人たちと、フランス中南部のブリーヴ=ラ=ガイヤルドで過ごしている。大戦勃発初期には新作にはあまり手を付けず、『牝鹿』のオーケストレーションの手直しや、1932年に書かれたピアノと木管楽器のための六重奏曲の改訂に取り組んでいた。ブリーヴ=ラ=ガイヤルドでは新しく3つの楽曲を書きはじめ、10月にノワゼの自宅に戻ると4作目に着手した。これらはピアノと語り手のための『小象ババールの物語』、『チェロソナタ』、バレエ『典型的動物』、そして歌曲集『平凡な話』である。 戦争中の大半をパリで過ごしたプーランクはベルナックと共にリサイタルを開き、フランス語の歌ばかりを取り上げた。公知の同性愛者であったプーランクはナチスの規則に照らすと危険な立場に置かれていたにもかかわらず(デトゥーシュは辛うじて逮捕、国外追放を免れていた)、彼は音楽の中でドイツをものともしない数多くの振る舞いをした。アラゴンやエリュアールといったフランスのレジスタンス運動(英語版)で有名な詩人たちの詩に作曲した。また、1942年にパリのオペラ座で初演された『典型的動物』には、反ドイツの歌である「Vous n'aurez pas l'Alsace et la Lorraine」などを盛り込んで複数回繰り返させた。彼が創立メンバーに名を連ねた国民戦線は、ミヨーやパウル・ヒンデミットなどの演奏禁止された音楽家との関係性によりナチスから疑いの目を向けられていた。1943年には8編のエリュアールの詞を基に、ベルギーに向けた2群の無伴奏合唱のためのカンタータ『人間の顔』を作曲する。終曲「自由」で終わるこの作品はドイツ支配下のフランスでは演奏することが出来なかった。初演は1945年にロンドンのBBCスタジオで行われて放送され、パリでの演奏ようやく1947年になってから行われた。『タイムズ』紙の音楽評論家は、後にこの作品が「当代屈指の合唱曲であり、それ自体が無視に甘んじたことでプーランクが追いやられてきた『二流』(petit maître)というカテゴリーから、彼を脱出させる」と記している。他にも対独抵抗の意志を込めてガルシア・ロルカの想い出に捧げた『ヴァイオリン・ソナタ』(1942年-1943年)やルイ・アラゴンの詩に曲を付けた『セー』(C)を作曲した。 1945年1月にフランス政府の委嘱を受けたプーランクとベルナックは、パリから空路向かったロンドンで熱狂的な歓迎を受けた。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団はこの作曲家の栄誉を称えてレセプションを開催、ロイヤル・アルバート・ホールでプーランクとベンジャミン・ブリテンの独奏で『2台のピアノのための協奏曲』を演奏、ベルナックとはウィグモア・ホールとナショナル・ギャラリーでリサイタルを開催して歌曲(mélodie)やピアノ作品を演奏、BBCへの録音も行った。ベルナックは人々の反応に圧倒されていた。彼とプーランクがウィグモア・ホールの舞台へ歩み出ると「聴衆は起立し、歌う前にもかかわらず私は感動のあまり泣き出してしまった。」2週間の滞在を終えた2人は、1940年5月に運行を開始していた初となるボート・トレインに乗ってロンドンを後にパリへ旅立った。 プーランクはパリで『小象ババールの物語』と、上演時間約1時間の短いオペラ・ブッフの形式を取ったオペラ処女作『ティレジアスの乳房』の総譜を完成させた。この作品は1917年上演のアポリネールの同名の戯曲(フランス語版)により書かれている。サムズはこのオペラが「高潔な精神を持つ混沌」であり、「さらに深く悲しい主題 - 産み育て、戦禍で破壊されたフランスを再発見する必要性」が隠されている、と述べている。1947年6月3日にオペラ=コミック座で初演されたこの作品は、評論家からは好評を得るも大衆人気の獲得には至らなかった。女声の主要な役を演じたドゥニーズ・デュヴァルは作曲者お気に入りのソプラノとなり、頻繁にリサイタルで共演したほか、作品もいくつか献呈されている。彼はデュヴァルを私を涙させるナイチンゲール(Mon rossignol à larmes)と呼んだ。 大戦後すぐ、プーランクは女性と恋愛関係になった。その女性、フレデリーク(フレディ)・レベデフとの間には1946年に娘のマリー=アンジュを授かった。子どもは誰が父親であるかを知らさせずに育てられたが(プーランクは名親ということになっていたと思われる)、プーランクは彼女への支援を惜しまず、また彼女がプーランクの遺産の第1の相続人となっている。 戦後になって、プーランクはストラヴィンスキーの最新作を否定して、新ウィーン楽派の教えのみが確かであると主張する、若い世代の作曲家たちと意見を戦わせた。プーランクはストラヴィンスキーを擁護し、「1945年もになって我々は十二音技法の美学のみが現代音楽への唯一の救済であるかのように語るのか」と、信じ難いという思いを表明した。彼の見解では、ベルクは音列主義を行きつくところまで用い、シェーンベルクの音楽は今や「砂漠、石のスープ、模造音楽、もしくは詩的ビタミン」であり、彼にピエール・ブーレーズなどの敵対作曲家をもたらしていた。プーランクとそりの合わない人々は、彼に時代遅れで軽薄な戦前の遺物であえるとのレッテルを貼ろうとした。これが原因となってプーランクはさらに真剣な作品に焦点を定め、フランスの大衆にそうした作品を聴かせようと試みることになる。アメリカやイギリスには強固な合唱の伝統があったために彼の宗教音楽もたびたび演奏されたが、フランスでの演奏機会はずっと少なく、そのために大衆や評論家が彼の真剣な楽曲を認知しないままとなることが少なくなかった。 1948年にベルナックを伴った演奏旅行で、プーランクは初めてアメリカを訪れて大きな成功を収めた。その後1961年までの間に頻繁に同国に赴くと、ベルナックやデュヴァルとリサイタルを開催したほか、ソリストとしてボストン交響楽団の委嘱により作曲された『ピアノ協奏曲』(1949年)を初演するなどした。
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