1940年代:大戦と戦後とは? わかりやすく解説

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1940年代:大戦と戦後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 10:20 UTC 版)

フランシス・プーランク」の記事における「1940年代:大戦と戦後」の解説

プーランク第二次世界大戦中もしばしの期間を従軍して過ごしている。1940年6月2日召集を受け、ボルドー防空部隊所属したドイツへ降伏後1940年7月18日プーランク動員解かれることになった同年の夏は家族友人たちと、フランス中南部ブリーヴ=ラ=ガイヤルド過ごしている。大戦勃発初期には新作にはあまり手を付けず、『牝鹿』のオーケストレーションの手直しや、1932年書かれピアノ木管楽器のための六重奏曲改訂取り組んでいた。ブリーヴ=ラ=ガイヤルドでは新しく3つの楽曲書きはじめ、10月にノワゼの自宅に戻ると4作目着手した。これらはピアノ語り手のための『小象ババールの物語』、『チェロソナタ』、バレエ典型的動物』、そして歌曲集平凡な話』である。 戦争中大半パリ過ごしたプーランクはベルナックと共にリサイタル開きフランス語の歌ばかりを取り上げた公知同性愛者であったプーランクナチス規則に照らすと危険な立場置かれていたにもかかわらず(デトゥーシュは辛うじて逮捕国外追放免れていた)、彼は音楽の中でドイツものともしない数多く振る舞いをした。アラゴンエリュアールといったフランスレジスタンス運動英語版)で有名な詩人たちの詩に作曲したまた、1942年パリオペラ座初演された『典型的動物』には、反ドイツの歌である「Vous n'aurez pas l'Alsace et la Lorraine」などを盛り込んで複数繰り返させた。彼が創立メンバー名を連ねた国民戦線は、ミヨーパウル・ヒンデミットなどの演奏禁止され音楽家との関係性によりナチスから疑い目を向けられていた。1943年には8編のエリュアールの詞を基に、ベルギー向けた2群の無伴奏合唱のためのカンタータ人間の顔』を作曲する終曲「自由」で終わるこの作品ドイツ支配下フランスでは演奏することが出来なかった。初演1945年ロンドンBBCスタジオ行われて放送されパリでの演奏ようやく1947年になってら行われた。『タイムズ』紙の音楽評論家は、後にこの作品が「当代屈指の合唱曲であり、それ自体無視甘んじたことでプーランク追いやられてきた『二流』(petit maître)というカテゴリーから、彼を脱出させる」と記している。他にも対独抵抗意志込めてガルシア・ロルカ想い出捧げたヴァイオリン・ソナタ』(1942年-1943年)やルイ・アラゴンの詩に曲を付けたセー(C)作曲した1945年1月フランス政府委嘱受けたプーランクとベルナックは、パリから空路向かったロンドン熱狂的な歓迎受けたロンドン・フィルハーモニー管弦楽団はこの作曲家栄誉称えてレセプション開催ロイヤル・アルバート・ホールプーランクベンジャミン・ブリテン独奏で『2台のピアノのための協奏曲』を演奏、ベルナックとはウィグモア・ホールナショナル・ギャラリーリサイタル開催して歌曲(mélodie)やピアノ作品演奏BBCへの録音行った。ベルナックは人々の反応圧倒されていた。彼とプーランクウィグモア・ホール舞台へ歩み出ると「聴衆起立し、歌う前にかかわらず私は感動のあまり泣き出してしまった。」2週間滞在終えた2人は、1940年5月運行開始していた初となるボート・トレイン乗ってロンドンを後にパリへ旅立ったプーランクパリで『小象ババールの物語』と、上演時間1時間の短いオペラ・ブッフ形式取ったオペラ処女作ティレジアスの乳房』の総譜完成させた。この作品1917年上演アポリネール同名戯曲フランス語版)により書かれているサムズはこのオペラが「高潔な精神を持つ混沌」であり、「さらに深く悲しい主題 - 産み育て戦禍破壊されフランス再発見する必要性」が隠されている、と述べている。1947年6月3日オペラ=コミック座初演されたこの作品は、評論家からは好評を得る大衆人気獲得には至らなかった。女声主要な役を演じたドゥニーズ・デュヴァル作曲者お気に入りソプラノとなり、頻繁にリサイタル共演したほか、作品いくつか献呈されている。彼はデュヴァルを私を涙させるナイチンゲールMon rossignol à larmes)と呼んだ大戦後すぐ、プーランク女性恋愛関係になったその女性、フレデリーク(フレディ)・レベデフとの間には1946年に娘のマリーアンジュ授かった。子どもは誰が父親であるかを知らさせずに育てられたが(プーランク名親ということになっていたと思われる)、プーランクは彼女への支援惜しまず、また彼女がプーランク遺産の第1の相続人となっている。 戦後になってプーランクストラヴィンスキー最新作否定して新ウィーン楽派教えのみが確かであると主張する若い世代作曲家たちと意見戦わせた。プーランクストラヴィンスキー擁護し、「1945年になって我々は十二音技法美学のみが現代音楽への唯一の救済あるかのように語るのか」と、信じ難いという思い表明した彼の見解では、ベルク音列主義行きつくところまで用いシェーンベルク音楽今や砂漠石のスープ模造音楽もしくは詩的ビタミン」であり、彼にピエール・ブーレーズなどの敵対作曲家もたらしていた。プーランクとそりの合わない人々は、彼に時代遅れ軽薄な戦前遺物であえるとのレッテルを貼ろうとした。これが原因となってプーランクはさらに真剣な作品焦点定めフランス大衆そうした作品を聴かせよう試みることになる。アメリカイギリスには強固な合唱伝統があったために彼の宗教音楽もたびたび演奏されたが、フランスで演奏機会はずっと少なく、そのために大衆評論家彼の真剣な楽曲認知しないままとなることが少なくなかった1948年にベルナックを伴った演奏旅行で、プーランク初めアメリカ訪れて大きな成功収めたその後1961年までの間に頻繁に同国赴くと、ベルナックやデュヴァルリサイタル開催したほか、ソリストとしてボストン交響楽団委嘱により作曲された『ピアノ協奏曲』(1949年)を初演するなどした。

※この「1940年代:大戦と戦後」の解説は、「フランシス・プーランク」の解説の一部です。
「1940年代:大戦と戦後」を含む「フランシス・プーランク」の記事については、「フランシス・プーランク」の概要を参照ください。

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