牝鹿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/08 02:52 UTC 版)
『牝鹿』(めじか、Les Biches )FP.36は、フランシス・プーランクが作曲した1幕のバレエ音楽、またはこれを元にした管弦楽組曲。
タイトルの『牝鹿』とは、「若い娘たち」「かわいい子」といった意味である。
プーランク24歳の時の作品。初の合唱作品でもある。
概要
1923年、当時ミヨーと共にイタリアへ旅行していたプーランクは、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)を率いるセルゲイ・ディアギレフから現代版『レ・シルフィード』の作曲を依頼され、滞在中のモンテカルロでバレエ音楽の作曲を始めた。バレエはマリー・ローランサンの絵画に触発されており、1920年代初頭のサロンにおける「優雅な宴」 (Fête galante) の気分を再現したものである以外に明確な筋書きをもたない。タイトルはプーランクがヴァランティーヌ・グロスとタクシーに乗っている時に思いついた[1]。軽快で瑞々しい音楽[2]はプーランクの個性が発揮されているが、プーランク自身は、チャイコフスキーの『眠りの森の美女』のヴァリアシオン、ストラヴィンスキーの『プルチネルラ』や『マヴラ』の影響を受けたと語っている[2]。
バレエは同年の6月頃に完成され、翌1924年1月6日、モンテカルロにおいて、バレエ・リュスによって初演が行われた。この時の振り付けはニジンスカ、装置と衣装をマリー・ローランサン、指揮をエドゥアール・フラマンが担当し、ヴェラ・ネムチノヴァが主役を演じた。舞台は青いソファが1つ置かれただけの白く塗られた部屋、時期は暑い夏の午後。3人の若い男が16人の可愛い女の子達と無邪気に戯れているというものであった。モンテカルロでの初演に引き続き、同年5月26日にパリのシャンゼリゼ劇場でアンドレ・メサジェの指揮により再演されたが、どちらも成功であった[2]。
初演時より、批評家からは独特で透明感のあるオーケストレーションに対して高い評価が得られたが[2]、プーランクは円熟期に入った1939年にオーケストレーションの全面改訂を行った[3]。
全曲版
- 第1曲 序曲
- 第2曲 ロンドー
- 第3曲 舞曲
- 第4曲 アダージェット
- 第5曲 遊戯
- 第6曲 ラグ・マズルカ
- 第7曲 アンダンティーノ
- 第8曲 小舞曲
- 第9曲 終曲
組曲版
![]() |
この節の加筆が望まれています。 |
本来は合唱パートを含む9曲から成っていたが、プーランクは作曲から15年以上経過した1939年(または1940年とも)にそこから5曲を選び組曲の形にまとめている。序曲と歌の付いたナンバーは省かれている。
- 第1曲 ロンドー (Rondeau,Largo-Allegro)
- 第2曲 アダージェット (Adagietto)
- 第3曲 ラグ・マズルカ (Rag Mazurka,Moderato-Allegro molto)
- 第4曲 アンダンティーノ (Andantino)
- 第5曲 フィナーレ (Finale,Prest)
演奏時間
- 約15分30秒
楽器編成
標準的な三管編成である。
- ピッコロ1
- フルート2
- オーボエ2
- コーラングレ1
- クラリネット2
- バスクラリネット1
- ファゴット2
- コントラファゴット1
- ホルン4
- トランペット3
- トロンボーン3
- チューバ1
- ティンパニ2
- 打楽器(グロッケンシュピール、スネアドラム、ピッコロスネアドラム、プロヴァンス太鼓、シンバル、サスペンデッド・シンバル、バスドラム、トライアングル、タンブリン)
- ハープ1
- チェレスタ1
- 弦五部
脚注
- ^ リチャード・バックス、鈴木晶訳『ディアギレフ ロシア・バレエ団とその時代』リブロポート、1984年、下巻164ページ
- ^ a b c d アンリ・エル、村田健司訳『フランシス・プーランク』春秋社、1993年、40-47ページ
- ^ H.エル、前掲書、112-113ページ
参考文献
スコア(アルフォンス・ルドゥック社)のライナーノート
牝鹿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 20:23 UTC 版)
金色の牝鹿。千年前の須々田の山中で兄である鹿神比古命とともに暮らしていた。
※この「牝鹿」の解説は、「祝姫」の解説の一部です。
「牝鹿」を含む「祝姫」の記事については、「祝姫」の概要を参照ください。
「牝鹿」の例文・使い方・用例・文例
- 牡鹿と牝鹿
牝鹿と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- >> 「牝鹿」を含む用語の索引
- 牝鹿のページへのリンク