バレエ‐リュス【Ballets Russes】
バレエ・リュス
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バレエ・リュス(仏: Ballets russes)は、ロシア出身の芸術プロデューサー、セルゲイ・ディアギレフ(1872年 - 1929年)が主宰したバレエ団である。
- ^ 今谷和徳、井上さつき『フランス音楽史』春秋社、2010年、391ページ
- ^ 『オックスフォード バレエダンス辞典』
- ^ バックル、前掲書、上巻209ページ
- ^ Taruskin (1996), p. 522.
- ^ Taruskin (1996), pp. 528–535.
- ^ Taruskin (1996), pp. 548–549.
- ^ Taruskin (1996), p. 552.
- ^ パオラッチ (2017), p. 242.
- ^ パオラッチ (2017), p. 243.
- ^ パオラッチ (2017), pp. 246–247.
- ^ パオラッチ (2017), pp. 247–248.
- ^ パオラッチ (2017), pp. 248–250.
- ^ 1907年にマリインスキー劇場で初演された作品。
- ^ グリンカ、グラズノフ、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキー、チャイコフスキー
- ^ ストラヴィンスキー、グラズノフ、タネーエフ、リャードフ、ソコロフ
- ^ 1917年の再演ではカルロ・ソクラテ
- ^ 1908年にマリインスキー劇場で『エジプトの夜』のタイトルで初演された。
- ^ アレンスキー、タネーエフ、ムソルグスキー、チェレプニン、グリンカ、グラズノフ、リムスキー=コルサコフ
- ^ 1910年にペテルブルクのパヴロフ・ホールで初演された作品
- ^ リャードフ、グラズノフ、リムスキー=コルサコフ、チェレプニン
- ^ 1814年にパリ王立アカデミーで初演。
- ^ 火の鳥とツェレビーナの衣裳のみ
- ^ グラズノフ、ボロディン、アレンスキー、グリーグ、シンディング(ストラヴィンスキー編曲)
- ^ 後にフォーキンも「薔薇の精」役を踊った。
- ^ 1877年に初演された作品
- ^ リチャード・バックル、鈴木晶訳『ディアギレフ ロシア・バエレ団とその時代』リブロポート、1984年、上巻248ページ
- ^ 1922年の再演ではパブロ・ピカソ
- ^ 1922年の再演では、ニジンスカ
- ^ 1920年にマシーンによる新振付で再演
- ^ マシーン振付による1920年の再演ではリディア・ソコロワ
- ^ オペラは1909年にモスクワで初演された
- ^ 『パヴァーヌ』に基づく。
- ^ アメリカでのみ上演。ディアギレフが一度も見なかった唯一の作品となった。
- ^ 1925年にバランシンの新振付で再演された。
- ^ 1929年にリファールの新振付で再演。
- ^ 1926年にマシーンの新振付で再演。
- ^ 幕間の振付のみ
- ^ 1924年に「ソワレ・ド・パリ」(ボーモン伯爵主宰)で初演された作品
- ^ 1929年にココ・シャネルが新しい衣裳デザインを担当
- ^ 『ダフニスとクロエ』から転用
- ^ 『羊飼いの誘惑』から転用
- 1 バレエ・リュスとは
- 2 バレエ・リュスの概要
- 3 公演会場
- 4 参考文献
- 5 関連項目
バレエ・リュス
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「ダフニスとクロエ (ラヴェル)」の記事における「バレエ・リュス」の解説
関係者の葛藤や対立の末に誕生した『ダフニスとクロエ』は、バレエ・リュスのレパートリーの一つとなったが再演の機会には恵まれなかった。初演の2年後、1914年にモンテカルロとロンドンで上演されたが、その後10年間にわたって上演されることはなかった。 第一次世界大戦中の1917年12月、バレエ・リュスの一行は公演ツアーのためポルトガルの首都リスボンを訪れたが、運悪く到着後に軍事クーデターが勃発し、一行が泊まった宿の近くでも銃撃戦が行われた。ホールは汚く暖房がきかない上に満席になることは一度もなく、首都で行われた公演としては最悪なものとなった。しかも次の仕事が決まっておらず給料も支払われなかったため、団員だちは3ヶ月にわたって冬のリスボンで足止めされ、飢えと寒さに苦しむことになった。ディアギレフが次の仕事を求めてリスボンを離れている間、留守を任された舞台監督のセルゲイ・グリゴリエフ(ロシア語版)は、1914年以来上演されていなかった『ダフニス』の稽古を思い立ったが、公演のあてがあるわけでもなく、団員にとっては無駄な努力でしかなかった。このリスボンでの忌まわしい思い出と結びついた『ダフニス』はその後、バレエ・リュスの団員にとって不吉な演目と見なされるようになった。 1924年1月、ディアギレフはモンテカルロにおいてフランスの作品ばかりを集めた「フランス芸術祭」を開催した。この企画のために『ダフニス』は10年ぶりに再演され、アントン・ドーリンがダフニスを、リディア・ソコロワ(英語版)がクロエを踊った。ただし、その頃にはすでにフォーキンの振付を覚えているダンサーは誰もいなかったため、グリゴリエフが曖昧な記憶を頼りに振付を再現し、一部はニジンスキーの妹ブロニスラヴァ・ニジンスカが新たに振付けた。この年『ダフニス』はモンテカルロに引き続きバルセロナのリセウ劇場でも上演されたが、これがバレエ・リュスにおける『ダフニス』の最後の公演となり、1929年にはディアギレフの死によりバレエ・リュス自体が解散した。グレゴリエフは次のように『ダフニス』を振り返っている。 舞台監督としての長い経験から、私は運のいいバレエと運の悪いバレエがあるという結論を出していた。そして「ダフニスとクロエ」は運が悪いほうだった。どういうわけかレパートリーに定着することができず、たいへんな苦労の末に復元された今回もまた、たった二回か三回の上演の後、レパートリーからはずされた。音楽も装置、衣装、振付も美しかったのに、何らかの悪意に彩られた運命が影響を及ぼしていたのだろう。 — セルゲイ・グリゴリエフ、セルゲイ・グリゴリエフ 薄井憲二、森瑠依子訳『ディアギレフ・バレエ年代記:1909-1929』平凡社、2014年7月、ISBN 978-4-582-83665-3、213頁より引用
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バレエ・リュス
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「眠れる森の美女 (チャイコフスキー)」の記事における「バレエ・リュス」の解説
1921年11月から翌年2月にかけて、セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスは、ロンドンで、『眠れる森の美女』全幕を『眠り姫』(The Sleeping Princess)のタイトルで上演した。従来のバレエ・リュスは新作バレエを中心に上演しており、本作のような全幕の古典バレエはレパートリーに入っていなかったが、この頃は新作を発表できる振付家が不在であったことと、ディアギレフがチャイコフスキーの傑作を西欧へ紹介したいという思いを抱いていたことから、上演の運びとなった。振付を手掛けたのは、ニコライ・セルゲエフ(英語版)とブロニスラヴァ・ニジンスカである。セルゲエフはマリインスキー劇場の元舞台監督で、ロシアから亡命した際に、プティパ版『眠れる森の美女』の舞踊譜を持ち出していた。ニジンスカはその舞踊譜を元に、マイムで演じられていた場面をダンスに置き換えたり、新たな振付を追加したりといった改変を加えた。また、レオン・バクストが豪華な舞台美術をデザインし、出演者も一流のダンサーが揃えられた。 にもかかわらず本作は、バレエ・リュスに前衛的な作品を期待していた人々の支持を得ることができず、観客からも批評家からも不評であった。公演は当初予定していた上演期間の終了前に打ち切られ、ディアギレフは多額の借金を背負い、衣装や舞台美術もすべて差し押さえられた。しかしこの公演は、イギリスに『眠れる森の美女』を紹介し、後のロイヤル・バレエ団による全幕上演のきっかけを作った点や、ニジンスカが振付家として本格的に活動する契機となった点で、後のバレエ史に影響を与えている。なお、バレエ・リュスは1922年5月に『眠れる森の美女』の抜粋版である『オーロラ姫の結婚』を制作してパリ・オペラ座で初演し、その後はこの抜粋版をレパートリーとして上演し続けた。
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バレエ・リュス
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「タマーラ・カルサヴィナ」の記事における「バレエ・リュス」の解説
1906年以来、パリでロシアの絵画や音楽を紹介し続けたセルゲイ・ディアギレフは、1909年にシャトレ座を舞台とするバレエの公演を企画した。この、事実上のバレエ・リュスの旗揚げ公演は、夏季休暇中のマリインスキー劇場のダンサーを借りる形で行われ、パヴロワやフォーキン、ニジンスキーとともにカルサヴィナもこれに参加した。この時にパリの町中に貼られたポスターには、セーロフ画によるパヴロワの姿が描かれており、帝室バレエ団のプリマ・バレリーナであったパヴロワは公演の目玉とされていた。しかし、彼女はアドルフ・ボルムやニコライ・レガートらと小さな一座を率いて東欧を巡演中であったため、1ヶ月にわたったバレエ・リュス公演のうち、参加できたのは後半のみであった。 パヴロワを欠いた状態で始まったバレエ・リュスの公演最初の作品『アルミードの館』において、カルサヴィナは「主人公アルミードの友人」という脇役を演じたが、バルディナ、ニジンスキーとともに踊った本筋と関係のない途中のパ・ド・トロワがパリの聴衆に高く評価され、翌日の『ル・フィガロ』紙の第1面にはニジンスキーとカルサヴィナを描いたデッサンが大きく掲載された。また、公演期間の途中に『アルミードの館』の主演バレリーナであったヴェーラ・カラーリが団員と駆け落ちするという事件が起こったため、カルサヴィナは急遽代役としてアルミードを演じることとなり、このことでますます名声は高まった。パヴロワがパリに到着した頃には、すでにカルサヴィナは定冠詞付きの「ラ・カルサヴィナ」としてパリの人気を独占しており、公演終了後にはカルサヴィナのもとにイギリス、アメリカ、オーストラリアなど、各国の劇場からオファーが殺到した。 翌1910年、パリ・オペラ座で行われた公演では、パヴロワを主役とする『ジゼル』と『火の鳥』がプログラムの中心に据えられる予定であったが、パヴロワがロンドンのパレス劇場との契約を優先させたため、いずれの演目もカルサヴィナがタイトルロールを演じることになった(一説にはパヴロワが『火の鳥』の音楽を理解できず、嫌悪したからであるとされる)。『ジゼル』がフランスで上演されるのは実に1868年以来のことであったが観客の反応は芳しくなく、注目されたのはむしろ新作の『火の鳥』(音楽:イーゴリ・ストラヴィンスキー、振付:フォーキン)の方であった。作曲者のストラヴィンスキーはキャストについて、パヴロワが「火の鳥」役にふさわしく、カルサヴィナには王女の役が適していると考えていたが、実演でのカルサヴィナの完璧な踊りに満足した。カルサヴィナの「火の鳥」は、パヴロワの「瀕死の白鳥」に匹敵する当たり役だとされている。 この2年間の成功により、ディアギレフはバレエ・リュスを常設のバレエ団とすることを決意し、団員を集めた。帝室バレエ団を退団してバレエ・リュス専属の踊り手となる者も多かったが、カルサヴィナは1910年に帝室バレエ団のプリマ・バレリーナに昇格しており、この身分を保持したままでバレエ・リュスに参加した。2つのバレエ団を掛け持ちすることが可能だったのは、勤続年数が短いカルサヴィナの収入を保証する目的で、帝室バレエ団がプリマ・バレリーナでありながら身分をゲスト扱いとし、自由に休暇を取ることを認めたためである。 バレエ・リュスでのカルサヴィナは第一次世界大戦までに、『薔薇の精』(1911年)の乙女役、『ペトルーシュカ』(同年)の踊り子役、『タマーラ』(1912年)のタイトルロール、『ダフニスとクロエ』(同年)のクロエ役、『遊戯』(1913年)の少女役、『サロメの悲劇』(同年)のタイトルロールなど、多くの作品に出演した。ニジンスキーはこの時期のよきパートナーであり、『薔薇の精』、『ペトルーシュカ』などで息のあった演技を披露した。
※この「バレエ・リュス」の解説は、「タマーラ・カルサヴィナ」の解説の一部です。
「バレエ・リュス」を含む「タマーラ・カルサヴィナ」の記事については、「タマーラ・カルサヴィナ」の概要を参照ください。
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