ダフニスとクロエ (ラヴェル)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/01 11:19 UTC 版)
『ダフニスとクロエ』(フランス語: Daphnis et Chloé)は、1912年にバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)によって初演された、ミハイル・フォーキン振付によるバレエ、またはこのバレエのためにフランスの作曲家モーリス・ラヴェルが作曲したバレエ音楽である。フォーキンの振付は後世に伝わらなかったが、ラヴェルが1909年から1912年にかけて作曲したバレエ音楽はオーケストラの重要なレパートリーの一つして演奏され続け、様々な振付家がラヴェルの音楽に合わせた独自の振付によるバレエを制作している。
注釈
- ^ 原作のリュセイオンは、クロエと愛し合う方法を知らないダフニスに性の手ほどきをし、童貞を奪うのだが[9]、バレエではこの直接的なエピソードは省略されている[10]。
- ^ 新しく作られた振付の中には、パン神を生身のダンサーが演じるものもある(アシュトン版など)。
- ^ ロンゴスの原作では、レスボス島のミティリーニの町から360キロメートル離れた荘園が舞台である[14]。
- ^ 1876年に初演されたフランスのバレエ。ルイ・メラント振付、レオ・ドリーブ作曲による。
- ^ フォーキンの「意見書」は、「踊りは単なる体操ではなく表現的でなければならない」、「踊りは登場人物の精神や心の表現でなくてはならない。音楽もワルツやポルカといったものではなく、表現的なダンスにふさわしくなくてはならない」、「ダンサーは喝采を受けるためにシーンを中断してはいけない。」、「バレエは音楽、美術などの要素と完全に調和しなくてはならない」という4か条からなっていた[18]。フォーキンは1914年6月に行われたバレエ・リュスのロンドン公演中、『タイムズ』紙にバレエに関する5か条のマニフェストを掲載したが、その内容は4か条の意見書がその原型となっている[19]。
- ^ フォーキンは1898年に帝室バレエ団に入団し、1904年に第一舞踊手、1905年に振付師となった[22]。また、1902年からは自身が学んだ帝室バレエ学校の教師も務めていた[23]。
- ^ フォーキンは当初1905年としていたが[20]後に1904年に訂正している[24]。
- ^ なお、1904年末にペテルブルクで行われた公演で、古代ギリシャ風の衣裳によるダンカンの踊りにフォーキンが刺激を受けたことは事実であり[30][31][32]、その後フォーキンはサンクトペテルブルク公共図書館の館長ウラディーミル・スターソフの協力を得て古代ギリシャに関する資料(ジョルジュ・ペロー・シャルル・シピエによる『古代芸術の歴史(Histoire de l’art dans l’Antiquité )』など)を読みあさり[33][34]、1905年に帝室バレエの振付師になってからは『アクシスとガラテア』(1905年)、『ユーニス』(1907年)などの作品で、ギリシャの物語や衣裳を用いている[35]。なお、『ユーニス』はロシアで最初の、古代ギリシャ風の衣裳で踊るバレエとなった[35]。
- ^ 北村(2020)は別の文献資料をもとに1906年であったと推測している[24]。
- ^ 現存する部分以外については紛失したのか、そもそも未完であったのか定かでない[36]。
- ^ 1907-1908年頃[37]。
- ^ ディアギレフはかつてロシア帝室劇場に特任要員として勤務していた[38]。
- ^ 1907年にバス歌手フョードル・シャリアピンなどによる「ロシア音楽演奏会」、1908年にシャリアピン主演による歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』の上演をプロデュースしていた[41]。
- ^ ロシア帝室バレエ団は5月から9月までがオフシーズンであった[42]。
- ^ 観客の中にはラヴェルもいた[45]。
- ^ フォーレは当時、『ペネロープ』の作曲に苦心しておりディアギレフの依頼に応えなかった[47]。
- ^ 1906年6月、ディアギレフはクロード・ドビュッシーを訪問し、18世紀のイタリアを舞台にした作品を依頼した。ドビュッシーは『マスクとベルガマスク』の台本を仕上げたが、音楽は書かなかった[48]。
- ^ ディアギレフはパリで影響力を持つミシア・セールと交流があり、ミシアの元夫アルフレッド・エドワーズのサロンや、ミシアの異母兄シーパ・ゴデブスカのサロンは、いずれもラヴェルとつながりがあった[50]。
- ^ 後にラヴェルは『ダフニス』の作曲を依頼された年を「1907年」だと主張しているが、ラヴェルの記憶違いである[51]。
- ^ この頃のラヴェルの作品には、歌劇『スペインの時』、『スペイン狂詩曲』(以上1907年作曲)、『夜のガスパール』(1908年作曲)などがある。
- ^ 原作であるロンゴスの『ダフニスとクロエ』についても、フォーキンが読んでいたものはディミトリー・メレシュコフスキー翻訳による1895年のロシア語版[33]、ラヴェルが読んでいたものは古くからのジャック・アミヨ翻訳によるフランス語版であった[10]。
- ^ 実際の衣裳は外部リンク参照[57]。
- ^ Morrison(2004)では6月25日となっている[5]。
- ^ カットされた後半部分ではダフニスとクロエの出生の秘密が明かされ、それぞれが高貴な家柄の血筋であったことが分かることになっていた[5]。
- ^ フォーキンによる初期の台本はサンクトペテルブルクに保管されている[5]。
- ^ 短縮される前の台本では、ラモンの妻ミルタラ(Mirtala)、クロエの育ての父ドゥリアス(Drias)とその妻ナペー(Nape)、ダフニスの実の父である領主ディオニソファン(Dionisofan)とその妻クレアリスタ(Klearista)、幇間のグナフォン(Gnafon)、老いた牧人フィレタス(Filetas)といった人物の登場が予定されていたが、これらはいずれも最終的な台本からは削除された[58]。
- ^ オリジナルの台本では、「フィレタス」という老人の役割となっていた[58]。
- ^ パリでの公演に先立ち、5月20日からベルリンで二週間の公演を行っている[61][62]
- ^ 1911年の2月27日にラヴェルは、当時フランスに住んでいたイギリスの作家アーノルド・ベネットに『ダフニス』の一部をピアノで弾いて聞かせているが[70]、ベネットは『ダフニス』がパリの人々には古臭く聞こえるのではないかという懸念を日記に記している[69]。
- ^ バックル(1984)では、「第1組曲」の初演年がバレエ初演と同年の1912年となっている[72]。
- ^ 『ナルシス』の初演はモンテカルロ歌劇場において4月26日に行われた。
- ^ 王女タマーラ役をタマーラ・カルサヴィナが踊った[86]。
- ^ ピルツは翌年の『春の祭典』で、ニジンスカの代役として主役の「生贄の乙女」に抜擢される[87]。
- ^ チェルニチェヴァは『火の鳥』で王女役を踊った[88]。彼女について、ストラヴィンスキーは「ラヴェルが心を惹かれた唯一の女性」とコメントしている[88]。
- ^ 4月5日に書き上がったのは自筆譜のスコアである[64]。
- ^ ラヴェルはここまでの間『ダフニス』にかかり切りであった訳ではなく、この年の上半期には、『マ・メール・ロワ』(1月28日 初演)、『アデライード、または花言葉』(4月22日 初演)と、いずれも自作のピアノ曲から編曲し、ラヴェルが自ら台本を書いたバレエが上演されている[90]。後者については3月にわずか2週間で編曲されており、ラヴェルの弟子ロザンタールは、バレリーナのトゥルハノーヴァから「ディアギレフに対抗する演目」を求められたラヴェルが、ディアギレフの態度に不満があったためにこの仕事を引き受けたとしている[91]。
- ^ 主人公のダフニスは誘拐されたクロエを助ける訳でもなく、神によって救出される間、眠っているだけである。
- ^ ディアギレフはバレエの時間は1時間以内を理想としており、その時間は年を追うごとに短くなっていた[78]。おおむね30分前後の作品が多い中、『ダフニス』は異例の長さであった[96]。
- ^ 初演の指揮者ピエール・モントゥーは「われわれ一同はディアギレフが明らかに興味を失っているのを見て力を落とした[76]。」と回想している[76]。
- ^ 通常、新作のバレエは上流階級が席に着いていない開演直後を避け[103]プログラムの2番手に演じられる慣例であったにもかかわらず、ディアギレフは『ダフニス』を第4プログラムの幕開きにしようとし、さらに開演時刻を30分繰り上げて開始しようとしたが、フォーキンの激しい抗議により2番手の上演に戻したとされる[103]。同様の記述はフォーキンのWebサイトの伝記[104]にも見られるが、リチャード・バックルはこのエピソードを紹介しつつも、この話の信憑性に疑問を呈している[84]。
- ^ バックル(1984年)によれば、グリゴリエフはディアギレフの同性愛に関係する記述を意図的に避けている[106]。
- ^ ニジンスキーは1913年には『春の祭典』や『遊戯』の振付を行うが同年にバレエ・リュスを解雇されてしまったため、フォーキンが呼び戻され、第一次世界大戦が始まるまでの期間、バレエ・リュスに在籍した。
- ^ グロスによる『ダフニス』のスケッチは外部リンクを参照[120]。
- ^ グロスのスケッチは『春の祭典』の場合は細部まで書き込まれている上に数も多く、ニジンスキーの振付を復刻する際の重要な資料の一つとなった[121]。
- ^ 初演から10年間にわたり毎年再演された『火の鳥』などとは対照的である[122]。
- ^ ディアギレフの同性愛の相手であったニジンスキーは、1913年の南米公演に向かう船上でロモラ・デ・プルスキーと電撃的に結婚し[123]、嫉妬したディアギレフは南米からの帰国後にニジンスキーを解雇した[124]。グレゴリエフの年代記では南米公演でニジンスキーがリオデジャネイロでの公演に参加しない契約違反があったためとしているが[125]、これは事実ではなく[106]、グリゴリエフはディアギレフの同性愛の事実を隠すために理由を捏造している[106]。
- ^ フォーキンは復帰にあたり、ニジンスキーの作品をレパートリーから外すことをディアギレフに要求した[127]。
- ^ ディアギレフはリヒャルト・シュトラウスの音楽による『ヨゼフ伝説』の振付をフォーキンを説得する際の「餌」とした[128]。
- ^ ロンドン公演ではトマス・ビーチャムが指揮した[130]。
- ^ ロンドン公演に先立つモンテカルロ公演では合唱抜きで上演された[131]。
- ^ ヴォーン・ウィリアムズは1907年から1908年にパリを訪れ、ラヴェルに師事したことがある[133]。
- ^ 観客の中には、バレエ作品を研究するためにロンドンを訪れていた若き日のプロコフィエフもいた[136]。
- ^ この間ディアギレフは1920年にも『ダフニス』を再演しようとして稽古の指示をしたが、まもなく気が変わり撤回された[144]。
- ^ グリゴリエフはバレエ・リュスの実務を担当したが、帝室バレエ団で学び、ダンサーとしての経験も持っていた[148]。
- ^ ドーリンはこの前年(1923年)にバレエ・リュスへ正式に入団した[150]。
- ^ 1929年にはディアギレフの死によりバレエ・リュス自体が解散した。
- ^ ルーシェはラヴェルに『マ・メール・ロワ』のバレエ化を委嘱し、同バレエ音楽を献呈されている[152]。
- ^ フランスのバレエは19世紀前半以降衰退しており[154]、伝統あるパリ・オペラ座も往年に比べれば落ちぶれていた[153]。
- ^ リトルフィールドはバレエ団を結成する前の1935年7月に第3場だけの初演を行っている[161] 。
- ^ ロイヤル・オペラ・ハウスのWebサイトでは、「アシュトン版」が初演された1951年の白黒写真が公開されており、当時のステージを窺い知ることができる[165]。
- ^ アシュトンが振付を記録したスコアはオペラハウスに保管されている[162]。
- ^ シャガールは、1908年にバクストに入門し、彼の元で絵を学んだことがある[170]。
- ^ クロード・ベッシーはその後オペラ座バレエ責任者を経て1973年にはバレエ学校校長となり、1975年にはエトワール・ダンサーを引退するが、同年11月に行った引退公演で演目に取り上げられたのはスキビン版『ダフニス』であった[172]。
- ^ ゲストは1776年から1999年までにパリ・オペラ座バレエが上演した演目のうち、100回以上取り上げられた作品のリストを作成した[174]。なお、1900年まではアイヴァ・ゲストによる調査、それ以降についてはオペラ座の資料による[174]。
- ^ 大阪と東京で公演を行い[175][176]。ダフニスをアッティリオ・ラビス、クロエをクロード・ベッシーが踊り、スキビンの後任のメートル・ド・バレエであるミシェル・デスコンベーはドルコン役も担当した。演奏はロベール・ブロ指揮による東京フィルハーモニー交響楽団が行い、合唱については、大阪公演が大阪音楽大学[175]、東京公演が東京混声合唱団が担当した[176]。
- ^ タラスは1941年にリトルフィールド版『ダフニス』に参加した経験がある[179] 。
- ^ 2019年にマリインスキー・バレエが初演したウラジミール・ワルナワ振付による『ダフニス』(指揮はヴァレリー・ゲルギエフ)は[182]、ダフニスとクロエがそれぞれ5人ずつおり、登場人物はオフィスで働く現代人という設定である[182]。
- ^ 全音楽譜出版社のポケットスコア(第2組曲)における作曲家山口博史は、さらに細かい動機や主題の存在を指摘している[195]。
- ^ ジャンケレヴィッチによれば「常軌を逸した嬰ニ音」[196]。
- ^ 5つの主題のうち、合唱によって歌われるのはこの主題のみである。
- ^ ジャンケレヴィッチは、このリュセイオンの踊りと『高雅で感傷的なワルツ』の第3ワルツとの間に作風の共通点を見出している[231]。
- ^ クロエの冠はパン神が加護の印として与えたもの。フォーキンの初期シナリオ及びラヴェルの1910年版のヴォーカルスコアでは、パン神は生身のダンサーが踊ることになっており、クロエに冠を与えるシーンが予定されていたが、後に削除された[276][69]。
- ^ 初期の台本から、クロエがパン神に助けられるシーンはダフニスが夢の中で見た光景ということになっていた[276]。
- ^ この前にあるラモンが登場する場面からを《無言劇》とする場合もある[278]。ここでは音楽之友社ポケットスコア(第2組曲)の井上さつきの区分に従う。
- ^ ダフニスとクロエがニンフの祭壇に羊を捧げる場面からを《全員の踊り》とする場合もある[278]。
- ^ 『アルミードの館』の公演では、ニジンスキーが跳躍したまま落ちてこないように見えたと言われる[298]。
- ^ 『最新名曲解説全集』などには、1910年にデュラン社からピアノ譜が出版されたという記載があるが、ここで述べたとおり正規の出版物ではない。
- ^ タヴェルヌ夫人所有の自筆譜は、ラヴェル没後50年を記念してリヨンで開かれた「ラヴェル展」のために貸し出されたことがある[305]。
- ^ オーベールは後に、ラヴェルの頼みを断らなかったことを音楽家としての誇りにしたという[306]。
- ^ ストラヴィンスキーは『ダフニス』初演前に、ラヴェルにピアノでの演奏を聴かせてもらっていた[317]。
- ^ 全音楽譜出版社の『ダフニスとクロエ第2組曲』のポケットスコアには、第3場の「夜明け」における声楽の代替箇所の譜例が掲載されている[327]。
- ^ IMSLPで楽譜が閲覧可能。なお、バレエ全曲の編曲作品として扱われている。
- ^ 第3場の「無言劇」の部分に基づいている。
- ^ この公演は5月20日に予定されていたが、主要楽員の病気によりこの日に延期されたものである[328]。メンバーの病気が理由で定期公演が延期になったのは同楽団ではこれが初めてである[328]。
- ^ この定期公演ではセルゲイ・プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番も初演されている[329]。
- ^ 11月16日および17日[331]。
- ^ バレエ公演については、『日本洋舞史年表』によると、1958年10月11日に行われた「袴田美智子リサイタル」[333]、1960年11月2日に行われた「沢渓子バレエ団公演」[334]のそれぞれの演目に『ダフニスとクロエ』が含まれているが、フォーキンの台本やラヴェルの音楽が使われていたか、また、これらが日本での初演であるかは不明。
- ^ 1960年には、NHK交響楽団(1月、ウィルヘルム・シュヒター指揮)、東京交響楽団(5月、山田一雄指揮)、日本フィルハーモニー交響楽団(11月、渡邉曉雄指揮)の、3つの国内オーケストラが「第2組曲」を演奏している[336]。
- ^ この1か月前の11月14日から16日にかけて、若かりし頃の小澤征爾指揮がNHK交響楽団を指揮して「第2組曲」を演奏しているが[338]、この演奏会の後、小澤はNHK交響楽団と32年間にわたって決別する。詳しくは「小澤征爾#小澤征爾とNHK交響楽団」を参照。
- ^ 1973年にはNHK交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団(秋山和慶指揮)、京都市交響楽団(山田一雄指揮)、大阪フィルハーモニー交響楽団(手塚幸紀指揮])の4楽団が「第2組曲」を演奏している[336]。
- ^ シャルル・デュトワ が当時監督を勤めていたモントリオール交響楽団と1981年に録音したバレエ音楽全曲のディスクは、フランスACCディスク大賞(1982年)、モントルー国際レコード大賞(1982年)、日本レコードアカデミー賞(1983年)などを受賞した[344]。デュトワは1985年2月にモントリオール交響楽団と来日して「第2組曲」を演奏し、その後も1987年9月にはサントリーホールの公演でNHK交響楽団を指揮して「第2組曲」を演奏している[342]。
- ^ デュトワはこの前年に常任指揮者に就任している[345]。
- ^ 関係者の間で「ラヴェル事件」と呼ばれる[346]。
- ^ 音楽之友社の月刊誌『バンドジャーナル』では、この「事件」を受け、1982年3月号で特別企画「ほんとうにラヴェルは演奏できないの?」を掲載した[346]。
- ^ 当時はビュッフェ・クランポン社。
- ^ 死後50年と戦時加算10年。
- ^ 著作権消滅以後はブートリー編曲にかわり、国内で出版された編曲譜などにより演奏されている。
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- ダフニスとクロエ (ラヴェル)のページへのリンク