ピアノ協奏曲 (ラヴェル)
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『ピアノ協奏曲ト長調』(ピアノきょうそうきょくとちょうちょう、仏: Le Concerto en sol majeur)は、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルが最晩年に作曲した2曲のピアノ協奏曲のうちの一つ。死の6年前(1931年)に完成され[1]、完成作品としては最後から2番目にあたる[2]。並行して作曲された『左手のためのピアノ協奏曲』(1930年完成)の重厚さ[3]とは対照的な陽気で華やかな性格を持ち、生き生きとしたユーモアと優雅な叙情性にあふれている[4]。作品中には、ラヴェルの母の出身地であるバスク地方の民謡や、スペイン音楽、ジャズのイディオムなど、多彩な要素が用いられているが[4]、ラヴェル自身は「モーツァルトやサン=サーンスと同じような美意識」に基づいて作曲したと語っている[5]。
- ^ フランスの音楽学者マルセル・マルナによるラヴェルの作品目録番号 (M.) は83。
- ^ 完成された最後の作品は歌曲集『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』(1933年、作品目録の番号84)。
- ^ a b c オレンシュタイン(2006: 133)。
- ^ a b c d オレンシュタイン(2006: 250)
- ^ ラヴェルの友人であった評論家カルヴォコレッシの証言による(オレンシュタイン(2006: 132-133))。また、ラヴェルは協奏曲作曲中にモーツァルトとサン=サーンスのすべてのピアノ協奏曲のスコアを取り寄せている(オレンシュタイン(2006: 257))。
- ^ 直訳だと「7集まって1となる」または「7つは1つ」。バスク地方における、4つのスペイン側地域と3つのフランス側地域の統一を意味する(オレンシュタイン(2006: 105))。
- ^ オレンシュタイン(2006: 257)
- ^ ロンは『クープランの墓』の初演(1919年)もつとめている。(諸井(1984: 111))
- ^ 「ラヴェル・フェスティバル」の中で演奏された。
- ^ オレンシュタイン(2006: 134)
- ^ スコアでは2名となっているが、第1楽章の終結部など、3種類の打楽器が同時を演奏しなければならない箇所がある。
- ^ 弦楽器の人数はスコアで指定されている。
- ^ 曲の開始は2拍子の2拍目からである。
- ^ 諸井(1984: 91)
- ^ a b c d e オレンシュタイン(2006: 251)
- ^ 平島(1993: 51)
- ^ “About the Work”. www.kennedy-center.org. 2019年6月27日閲覧。
- ^ a b 諸井(1984: 127)
- ^ 第1楽章と同様、第3楽章も2拍目から開始される。
- ^ 平島(1993: 53)
- ^ 平島(1993: 52)
- 1 ピアノ協奏曲 (ラヴェル)とは
- 2 ピアノ協奏曲 (ラヴェル)の概要
- 3 演奏時間
- 4 外部リンク
「ピアノ協奏曲 (ラヴェル)」の例文・使い方・用例・文例
- ピアノ協奏曲
- その曲はピアノ協奏曲に編集された。
- 6月21日の本選で,上原さんはチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」とラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を演奏した。
- そのとき,彼女は偶然,ラヴェルのピアノ協奏曲を聞き,自分と千秋(玉(たま)木(き)宏(ひろし))が舞台でその曲を一緒に演奏している姿を想像する。
- 千秋は彼女がショパンのピアノ協奏曲を演奏するのを見るためにはるばるプラハまで行く。
- 内田さんはクリーブランド管弦楽団と共演したモーツァルトのピアノ協奏曲の演奏で最優秀器楽ソリスト演奏(オーケストラとの共演)賞を受賞した。
- 浅田選手は,ショートプログラムではショパンのノクターンのうちの1曲,フリーではラフマニノフのピアノ協奏曲第2番に合わせて演技すると述べた。
- フリーについて,浅田選手は「私はラフマニノフのピアノ協奏曲がとても好きです。」と述べた。
- 翌日のフリーでは浅田選手はラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」に合わせて滑った。
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