タマーラ・カルサヴィナ
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タマーラ・プラトーノヴナ・カルサヴィナ(カルサーヴィナとも、ロシア語: Тама́ра Плато́новна Карса́вина, ラテン文字転写: Tamara Platonovna Karsavina, 1885年3月10日 - 1978年5月26日)は、ロシア出身のバレリーナである。ロシア帝室マリインスキー劇場のプリマ・バレリーナを務める一方、セルゲイ・ディアギレフ主宰のバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)における中心ダンサーとして活躍した。古典から実験的な作品に至るまでをこなし、幅広い芸風で多くの観客を魅了した[1]。ロシア革命を機にイギリスに亡命し、同国におけるバレエの発展に大きく貢献した。アンナ・パヴロワと並び、20世紀前半を代表するバレリーナである[2]。
注釈
- ^ 当初、陰謀が渦巻くバレエ界の裏側を知る父はダンサーになることには反対であった (劇場通り 1993, p. 43)。
- ^ 入学にあたっては姿勢や身のこなし、医師の診断のほか、音感、読み書き、算数のテストが課され、合格できるのは少数であった (劇場通り 1993, p. 59)。
- ^ 帝室バレエでは、コール・ド・バレエ、コリフェ、第2ソリスト、第1ソリスト、バレリーナの順に階級が上がっていく (劇場通り 1993, p. 142)。
- ^ ブノワはジゼルの演技を観て、カルサヴィナはパヴロワを越えたと感じた (バックル 1983, p. 上199)。
- ^ カルサヴィナは踊り子役が大いに気に入り、ストラヴィンスキーに対して永久にその役をやめないと誓った (ストラヴィンスキー自伝 1981, p. 50)。
- ^ ディアギレフに引き留められて帰国を1日遅らせたことが災いした (劇場通り 1993, p. 286)。
- ^ ディアギレフ死の翌日に完成し、カルサヴィナはこの日にディアギレフの訃報を受けた (劇場通り 1993, p. 8)。
- ^ パヴロワには7人の愛人がいたとされる (バックル 1983, p. 上57)。
出典
- ^ 鈴木 2008, pp. 47–48.
- ^ 鈴木 2008, p. 80.
- ^ 劇場通り 1993, p. 88.
- ^ 劇場通り 1993, p. 132.
- ^ 劇場通り 1993, p. 139.
- ^ 劇場通り 1993, p. 159.
- ^ 劇場通り 1993, p. 182.
- ^ 劇場通り 1993, pp. 183–186.
- ^ 劇場通り 1993, p. 187.
- ^ 劇場通り 1993, p. 189.
- ^ バックル 1983, p. 上136.
- ^ バックル 1983, p. 上157.
- ^ 藤野 1982, p. 100.
- ^ バックル 1983, p. 161.
- ^ バックル 1983, p. 164.
- ^ 藤野 1982, p. 102.
- ^ 鈴木 2008, p. 46.
- ^ バックル 1983, p. 上175.
- ^ a b バックル 1983, p. 上184
- ^ ストラヴィンスキー自伝 1981, p. 40.
- ^ 劇場通り, p. 341, ケイコ・キーンによる解説。
- ^ 劇場通り 1993, p. 252.
- ^ バックル 1983, p. 下94.
- ^ 劇場通り 1993, p. 305.
- ^ 劇場通り 1993, p. 298.
- ^ 劇場通り 1993, p. 306.
- ^ 劇場通り 1993, p. 277.
- ^ 鈴木2008, p. 48.
- ^ 鈴木 2008, p. 51.
- ^ 劇場通り 1993, p. 232.
- ^ 鈴木 2008, p. 52.
- ^ 鈴木 2008, p. 141.
- ^ 鈴木 2008, p. 44.
- ^ 劇場通り 1993, pp. 34–36.
- ^ 劇場通り 1993, p. 218.
- ^ 劇場通り 1993, p. 136.
- ^ 劇場通り 1993, p. 230.
- ^ バックル 1983, p. 上190.
- ^ 劇場通り 1993, p. 226.
- ^ バックル 1983, p. 上167.
- ^ 鈴木 2008, p. 24.
- ^ バックル 1983, p. 上57.
- 1 タマーラ・カルサヴィナとは
- 2 タマーラ・カルサヴィナの概要
- 3 イギリスでの活動
- 4 人物
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