1940年体制
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「野口悠紀雄#1940年体制」も参照 「日本的システム=構造問題」という議論は、日本国内に広範な支持基盤を持っている。その最大の想源は、経済学者の野口悠紀雄の1995年の著書『1940年体制-「さらば戦時経済」』であり、この書は1990年代の日本において、構造改革主義のバイブルの役割を果たした。 野口悠紀雄は、戦後の日本経済を高度成長へと導く基盤となった日本的雇用・間接金融システムが成立したのは、日本経済の戦時経済への移行が完成した1940年ごろのことであり、戦後日本の経済システムは1940年代の戦時統制経済を引き継いで形成されたとしている。野口悠紀雄は、「日本的システム」は日本経済が欧米への『キャッチアップ』の段階にあったときには機能したが、その段階を終えた日本にとっては成長の障害となっており、そのためには「構造改革」が必要であると主張している。 経済学者の原田泰は「日本経済の構造問題とされるものは、1980年代からすでに存在していた。1990年代の経済停滞は構造が原因だとする議論は成り立たない」と指摘している。 経済学者の伊藤修は「戦時統制が戦後に影響を与えたことは否定できないが、戦後のシステムが固まってしまったとする議論は言い過ぎである。戦後の各時点において、その仕組みが選択され続け機能していたと考えるべきである」と指摘している。 経済学者の野口旭、田中秀臣は「『体制』『システム』という言葉によって、思考の単純化・ステレオタイプ化には大きな問題がある」と指摘している。野口旭、田中秀臣は「『金融護送船団方式』は結果として、膨大な社会的非効率性を生んだ。重要なのは、こうした政府介入による社会的非効率性は、明確な経済学的根拠に基づくものであり、『体制』『システム』という言葉によって曖昧化されるべきではないという点である。金融護送船団方式が非効率だったのはバブル崩壊よりも昔からであり、突然そうなったわけではない。それは、日本のマクロ的状況とは無関係に生じていたのである」と指摘している。 野口旭は「科学は反証可能であるが、『1940年体制』というイデオロギーは反証不能である」と指摘している。 田中秀臣は「1940年体制テーゼでは、資源の誤った配分というミクロ的な非効率性と、資源の遊休(失業)によるマクロ的非効率性を区別する視点が欠如している」と指摘している。 2007年10月19日、渡辺喜美行政改革担当大臣は経済同友会の会員懇談会で「現状を続けることが日本の最大の不幸である。民主導による競争原理を導入することが、1940年体制のDNAを変えることになる」と指摘し、1940年体制の打破の必要性を強調した。渡辺は、競争をやってはいけないというDNAは、企業を国家目的に奉仕させる目的で1940年に確立した国家総動員体制が生み出した、という持論を持っている。
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