1940年代:第二次世界大戦から戦後期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 03:30 UTC 版)
「アメリカ合衆国共和党の歴史」の記事における「1940年代:第二次世界大戦から戦後期」の解説
1939年から41年にかけて、共和党内部では第二次世界大戦におけるイギリスへの支援をめぐり、激しい議論が交わされた。ヘンリー・スティムソンやフランク・ノックスのような国際主義者たちはイギリス支援を主張し、ロバート・タフトやアーサー・ヴァンデンバーグのような孤立主義者は、そのような支援は賢明ではなく、そもそも憲法に違反するとして強く反対した。孤立主義者は超党派でアメリカ優先委員会(英語版)を結成した。 1940年の大統領選挙に向けて、共和党では、まったく無名のウェンデル・L・ウィルキーが土壇場で候補指名を獲得した。ウィルキーはニューディール政策の非効率性を唱え、慣例を破って三選を目指そうとするルーズベルトを攻撃したが、大戦への不参戦を約束したルーズベルトの前に敗れた。 1941年の日本の真珠湾攻撃は孤立主義者と国際主義者との間の論争を棚上げにし、アメリカは大戦に参戦した。1942年の中間選挙で共和党は民主党の優位を更に切り崩した。戦争の需要から経済は繁栄し、保守連合によってニューディールの公的扶助政策の大半が廃止された。 1944年の大統領選挙では明らかに体力の衰えていたルーズベルトが四選を果たしたが、共和党候補でリベラル派のトマス・E・デューイ・ニューヨーク知事も善戦し、1948年の大統領選挙でも候補指名を獲得した。 1945年、ルーズベルトが四期目開始早々に死去すると、後を継いだのは、より右寄りのハリー・S・トルーマンだった。ルーズベルトが任命した閣僚のほとんどを入れ替えて始まったトルーマン政権だったが、1945年から46年にかけて失策が続き、不安が広がった労働者団体はストライキを頻繁に行った。この混乱は共和党に追い風となった。46年の議会選挙では、共和党が「もう結構?」と「過ちはトルーマンの常」("To Err is Truman"、to err is human (過ちは人の常)ということわざのもじり)いう標語を掲げて、1928年以来初めて多数派を取り戻し、下院議長にジョーゼフ・ウィリアム・マーティン・ジュニアを選出した。1947年、共和党は労使間の権利のバランスを図ることを目指し、タフト・ハートレー法を成立させた。その後、1950年代にかけてこの法律は選挙で中心的な課題であり続けたが、労働組合がこれを廃止に持ち込むことはできなかった。 1948年、共和党の左右への分裂を利用すべく、トルーマンは大胆にも臨時議会を招集し、共和党保守派が成立を阻止することを知りつつ、敢えてデューイの公約と一致するリベラルな法案を大量に送り込んだ。その上でトルーマンは、共和党の「無為無策議会」が国家の抱えるあらゆる問題の元凶と攻撃した。本選挙でトルーマンは、得票数にしてわずか200万票差(有効投票数は約4900万票)ながら、選挙人数では303票対189票とし、デューイと共和党を打ちのめした。
※この「1940年代:第二次世界大戦から戦後期」の解説は、「アメリカ合衆国共和党の歴史」の解説の一部です。
「1940年代:第二次世界大戦から戦後期」を含む「アメリカ合衆国共和党の歴史」の記事については、「アメリカ合衆国共和党の歴史」の概要を参照ください。
- 1940年代:第二次世界大戦から戦後期のページへのリンク