人種統合主義者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 02:45 UTC 版)
1960年に、インディアナポリス市長・チャールズ・ボズウェルは、ジョーンズに人権委員会(英語版)への参加を依頼した。ジョーンズは、ボズウェルからの目立たないようにすべきとの助言を無視し、地元のラジオ番組やテレビ番組を利用して彼の思想を伝えた。市長や他の州高官が、ジョーンズに公的な動きを抑えるように要請したものの、ジョーンズはその要請に抵抗した。全米黒人地位向上協会やアーバン・リーグ(英語版)の集会に参加した際には、彼が聴衆達に対して、より過激にと煽り、そしてクライマックスでは「私の民よ行こう!」("Let my people go!")と掛け声をかけたこともあって、大きな声援を浴びている。 この間、ジョーンズは人種統合を掲げる教会やレストラン、電話会社、インディアナ州警察(英語版)、映画館、遊園地、そしてインディアナ大学メソジスト病院(英語版)への支援も行っていた。アフリカ系アメリカ人2家族の家に、スワスティカ(ハーケンクロイツ)の落書きがなされた後、ジョーンズは個人的にその家族の近所の黒人家庭を訪問し、不安の解消に努めるとともに、ホワイト・フライトを防ぐために、移住しないよう白人家庭のカウンセリングを行っていた。 更にジョーンズは、黒人の入店を拒否するレストランを洗い出すためにおとり捜査を計画するとともに、アメリカ・ナチ党の指導者達に手紙を書き、その反応をマスコミにリークした。1961年に急病にかかったジョーンズが手違いで黒人病棟に入院させられた際には、彼は移動を拒否した。ジョーンズは、ベッドを整え、黒人病人の病人用便器の清掃を行っている。ジョーンズのこれらの行動に端を発した社会的圧力の結果、その病院の経営者たちは人種隔離病棟を廃止した。 ジョーンズは、彼の人種統合主義によってインディアナ州で相当数の非難を浴びるようになった。白人所有の企業や、地域が彼に対して批判的であった。スワスティカを人民寺院の建物にも落書きされたり、ダイナマイトの棒が人民寺院の石炭の山の中に設置されたり、脅迫電話の後に猫の死体がジョーンズの家に投げ込まれたこともあった。この他にも様々な憂慮すべき事案が発生したが、その一方でこれらの出来事の一部には、ジョーンズ自身が自作自演しているのではないかという疑いを持つ人もいた。
※この「人種統合主義者」の解説は、「ジム・ジョーンズ」の解説の一部です。
「人種統合主義者」を含む「ジム・ジョーンズ」の記事については、「ジム・ジョーンズ」の概要を参照ください。
- 人種統合主義者のページへのリンク