人種的暴力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:18 UTC 版)
「W・E・B・デュボイス」の記事における「人種的暴力」の解説
1906年秋の2つの災厄はアフリカ系アメリカ人に衝撃を与え、ブッカー・T・ワシントンの妥協主義(英語版)に打ち勝とうとするデュボイスの公民権運動への支持を強化した。二つの災厄とは、第一に大統領セオドア・ローズベルトはブラウンズ・ビル事件(英語版)の結果として告発されたことを理由に黒人兵士167人を不名誉除隊させたことである。除隊させられた兵士たちの多くは20年にわたり軍に勤務しており、定年間近であった。第二に、9月に黒人男性が白人女性を暴行したという事実無根の主張によってアトランタで暴動が発生(英語版)したことである。この結果、折から就職難で、雇用者が白人労働者と黒人労働者を競わせたことと相俟って、人種間の緊張に拍車をかけることになった。10,000人の白人たちがアトランタ中であばれまわり、見つけ出した黒人に手当たり次第に暴行を加え、25人以上の死者を出した。この1906年の暴動の影響で、デュボイスは黒人たちに共和党への支持を撤回するように呼びかけることになった。これは共和党のローズベルトとウィリアム・ハワード・タフトによる黒人への支援対応が不十分であったためである。これまでは、エイブラハム・リンカン大統領の時代から、アフリカ系アメリカ人のほとんどが、共和党を支持していたのである。 デュボイスはエッセイ『A Litany at Atlanta』を書き、この中でアトランタにおける暴動はアトランタの妥協が失敗であったことを証明していると主張した。黒人側は例の取引の責任を果たしたにもかかわらず、南部における法的正義を手に入れることができなかったからである。歴史家デーヴィッド・レヴァリング・ルイスは、当初は白人の貴族的な農場主が一種パターナリスティックな役割を担っていたが、いまや彼らの代わりに黒人と白人を競わせようとする実業家が台頭したため、アトランタの妥協はもはや通用しなくなったのだと書いている。これら2つの災厄はアフリカ系アメリカ人のコミュニティにとって分水嶺となる出来事であり、平等な権利についてのデュボイスの見解の優位を示す者であった。
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