入植地への攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 09:21 UTC 版)
「ジェームズタウンの虐殺」の記事における「入植地への攻撃」の解説
ジェームズタウン自体はインディアンの少年によって救われた。この少年はのちの文献で「チャンコ」と呼ばれるようになったが、本当にこの名前であったかどうかは不明である。この少年が夜中に白人のリチャード・ペースを起こし、攻撃の危険を知らせたとされている。ジェームズ川の対岸に住んでいたペースは家族の安全を確保した上で、川を渡り、ジェームズタウンの他の入植者に危険を知らせた。そのため、ジェームズタウンはオプチャンカノフたちポウハタン軍の攻撃に対し、いくらかの準備はできたのであった。しかし、周囲の入植地にはそういった知らせは何も無かった。 1日の攻撃によって、ジェームズタウンの周囲に立地していた小規模な入植地は壊滅的な被害を受けた。入植者とインディアンの共同文化交流所があったヘンリカスの入植地は交流所共々破壊された。マーティンズ・ハンドレッドのプランテーションでは、人口の半分が殺害された。ウォルステンホルムの入植地では、2軒の家と教会堂の一部分だけしか残らなかった。全体では、入植者人口の約1/3にあたる347人が殺害された。これに加え、20人の入植者女性が捕らえられ、死ぬか解放されるまでの間、インディアンの奴隷にさせられた。また、この攻撃によって入植者の畑も破壊され、春の収穫も絶やされたため、いくつかの入植地は完全に放棄され、消滅していった。 この事件によって、インディアンやその文化に対するイギリス本土の評価は覆された。バージニア植民地内だけでなく、本国イングランドでも「インディアンは野蛮だ」というイメージが再び広がったのであった。
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