フランスの砦建設
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「フレンチ・インディアン戦争」の記事における「フランスの砦建設」の解説
1753年の春、ポール・マリン・ド・ラ・マルグ(英語版)が2000人のトゥループ・ド・ラ・マリンとインディアン兵の指揮を任された。マリンの任務は、オハイオバレーのフランス国王領をイギリスから守ることだった。マリンは4年前にセロロンが遠征した経路をなそったが、セロロンがフランス領であることを示すために鉛板を埋めたその場所に、砦を作って兵を駐屯させた。最初に作ったのは、エリー湖南岸沿いの、プレスク島砦(現在のペンシルベニア州エリー近く)だった。次にルブッフ・クリークの源流に通じる道を建設し、そして2つ目の砦であるル・ブッフ砦を作った。(現在のペンシルベニア州ウォーターフォード)この砦は、ルブッフ・クリークの源流を囲い込むように建設されていた。そして南へ移動し、イギリス人交易者を追い払いまたは捕囚したため、イギリス人とイロコイ連邦とが、ラ・マルグのやっていることに気付いてしまった。ミンゴ族の族長であるタナチャリゾンは非常にフランス人を嫌っていた。フランスの領土の拡張によって西へ追いやられたイロコイ連邦諸族の生き残りであり、フランス人に父親を殺されて食べられたのを非難していた。タナチャリゾンはル・ブッフ砦に出向き、軍事行動を起こして駐屯兵を脅かしたが、マリンは小ばかにしたようにタナチャリゾンを追い返した。 イロコイ族はニューヨーク植民地北部の、ウィリアム・ジョンソンの屋敷に使者を送った。ジョンソンはイロコイ族から「ワラギゲー」、偉大なことを成し遂げる人物と呼ばれており、ニューヨークでは、イロコイ連邦の賞賛すべき構成員とされていた。1746年に、ジョンソンはイロコイ軍の大佐となり、その後はニューヨーク西部民兵隊の大佐となった。この民兵隊はオールバニでジョージ・クリントン(英語版)総督や、他の植民地から来た高官と会った。ヘンドリック族長は、イギリスは義務を守って、フランスの侵入を阻むべきだと主張した。クリントンから不満げな返答が返って来た時、ヘンドリックは「コーヴナント・チェーン」、長きにわたって続いてきたイロコイ連邦とイギリスの友好関係はこわれたと宣言した。
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フランスの砦建設
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「ポートロワイヤルの戦い (1707年)」の記事における「フランスの砦建設」の解説
1702年のスペイン継承戦争(アン女王戦争)の勃発により、英仏双方の植民地においても、再び戦闘準備が進められた。アカディア総督のジャック=フランソワ・ド・モンベトン・ド・ブルイヤンは、戦争への参加に備え、既に1701年には、石と土塁による砦を作り、1704年にはその大部分が出来上がった 。1704年の2月に、フランスによるディアフィールド奇襲が起き、ボストンのイングランド系住民は、その年の5月に、ベンジャミン・チャーチを指揮官としてアカディアに遠征し、グランプレに襲撃を仕掛け、また他の集落をも襲った。この時、チャーチがポートロワイヤルを攻撃したか否かについては、英仏で証言が食い違っている。チャーチは自らの証言で、港に船を停泊して、攻撃すべきかどうか考えたが、最終的には攻撃をしないことに決定したと述べている。一方フランス側の証言では、小規模な攻撃があったとされている。 1706年、ダニエル・ドージェ・ド・スーベルカスがアカディア総督となってからは、アカディアは反撃姿勢に転じ、ニューイングランドのイングランド系住民への襲撃が奨励された。スーベルカスはまた、ポートロワイヤルからの、ニューイングランド船への私掠行為も奨励した、私掠は非常に功を奏した。グランドバンクスのイングランドの漁船隊は、1702年から1707年の間に80パーセント減少し、また、グランドバンクス沿岸部のイングランドの集落は襲撃を受けた。
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