フランスの戦争準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 04:19 UTC 版)
「ジュモンヴィルグレンの戦い」の記事における「フランスの戦争準備」の解説
詳細は「フレンチ・インディアン戦争」を参照 1740年代から1750年代初頭にかけて、多くのイギリスやカナダの交易業者が、オハイオ川の上流の流域を含めたオハイオ領土(現在のペンシルベニア州西部)に足を運ぶようになった。ヌーベルフランス当局は、イギリス人業者やイギリスからの入植者を、この地域から追い出そうと躍起になり、1753年、オハイオに一連の砦を築き始めた。 ヌーベルフランスのこの行動は、イギリスの業者のみならず、この地域のインディアンたちの注意をも惹いた。フランスとインディアンとは良好な関係であったにも関わらず、イギリス商人たちは、インディアンたちに、フランス系カナダ人より、自分たちと取引をするように言いくるめ、フランスの砦建設は、すべてに歓迎されたとはいえなかった。とりわけ、ミンゴ族の「ハーフ・キング」(half king)族長タナチャリゾンは、結果として、反フランスの立場となった。ある報告によれば、特にフランスの砦建築部隊の指揮官、ポール・マリン・ド・ラ・マルグは、タナチャリゾンに腹を立ててこう怒鳴った。「お前に言っておく、俺は川下に行く。もし川がふさがれていたら、俺の部隊で吹き飛ばして、俺に反対する奴らを踏みつけてやる。お前の馬鹿げたセリフなど軽蔑してくれるわ」そして、かつてタナキャリゾンが、善意の証としてくれたウォムパムを床に投げ落とした 。それから間もなくしてマリンは死んだ。建設部隊の新指揮官にはジャック・レガルデュール・ド・サンピエールが任命された。 1753年12月、バージニア植民地の総督ロバート・ディンウィディーは、民兵の少佐であるジョージ・ワシントンをオハイオ領土(バージニアを含むニューイングランド植民地のいくつかが、この地をイギリス領土であると主張していた)に、密使として派遣し、フランスに立ち去るように言わせた。サンピエールは、ワシントンに対して丁寧に、自分は命令に従ってここにいると告げ、ワシントンが携えて来た書状は、自分の上官に送られるべきであること、そして立ち去る意思はないことを告げた。 ワシントンはウィリアムズバーグへ戻り、ディンウィディーに、フランスが立ち退かない旨を知らせた。ディンウィディーは、ワシントンに中佐の権限を与え、民兵の連隊を出動させて、オハイオ川の起点を抑えるように命じた。その地は、かつてワシントンが、砦の建設にふさわしい土地と特定していた場所だった。ディンウィディーはまた、オハイオカンパニーの一員であるウィリアム・トレントにも大尉の権限を与え、部隊を連れて、すぐに砦を建設するように指示を出した。ディンウィディーのこの2つの命令は、彼の職務権限で行ったもので、この命令が実現するまでは、バージニア立法府の下院に、資金のことすら諮ろうとしなかった。トレントのオハイオカンパニーは、1754年2月に現地に到着し、タナチャリゾンとミンゴ族の助けを借りて、倉庫と砦柵を建て始めた。 同じ月に、800人のヌーベルフランスの民兵と、フランスの海兵隊が、サンピエールの命を受けた、フランス系カナダ人のクロード=ピエール・ペコーディ・ド・コントルクールの指揮の下、モントリオールからオハイオバレーへ進軍を開始した。トレントの砦建設を知らされたコントルクールが、海兵隊と民兵、そしてインディアンから成る500人の部隊を使って、トレント軍を追い払おうとした。(トレントの兵は、1,200人いたとも言われている)4月16日、コントルクール軍はオハイオ川の起点に到着した。翌日、トレント不在の間の代理指揮官、エドワード・ウォードに率いられていた36人の兵は、その場を立ち去るのに同意した。そしてコントルクールの兵たちは、デュケーヌ砦と呼ばれる砦を作り始めた。
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