フランスの撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:58 UTC 版)
「チャド・リビア紛争」の記事における「フランスの撤退」の解説
膠着状態を打開するために、4月30日、カダフィは、チャドに展開しているフランス軍・リビア軍の双方の撤退を提案した。フランス大統領フランソワ・ミッテランはこの提案の受け入れを表明、9月17日にはカダフィ、ミッテランの両指導者により「双方の撤退は9月25日に開始し、撤退完了期限は11月10日までとする」と公式に発表された。この合意に関し、ミッテランの外交力の賜物でチャドの危機的状況の解消に向けた決定的な進展であると、当初、メディアは歓迎した。また、この合意は、リビア・チャド問題に関して、アメリカ、チャド政府の双方から独立した外交政策を採るとの、ミッテランの意志を示したものであった。 フランスは撤退期限を尊重した一方、リビアは少なくとも3000人の駐留兵士をチャド北部にそのまま残し、一部の部隊を撤収させるに留めた。これが露見すると、フランスは困惑し、またフランス、チャド政府間の非難の応酬の原因となった。11月16日、ギリシャ首相アンドレアス・パパンドレウ(英語版)の仲介により、ギリシャクレタ島にて、ミッテランはカダフィと会談を行った。カダフィは「全てのリビア軍の撤退は完了済である」と宣言するが、翌日にはミッテランはそれが真実ではないと認めることとなった。しかしながら、ミッテランはフランス軍のチャド再派遣を命じなかった。 政治学者のサム・ノルチュング(英語版)によると、「1984年のこのフランス・リビア二国間の会談で折り合ったことで、カダフィはチャドの泥沼からの出口を見つける絶好の機会を得、同時に国際的な名声を高め、加えて、リビア代理人を含む和平協定への合意をハブレに強いる機会となった可能性がある。」とされる。しかし実際にはそうではなくて、カダフィは「フランスの撤退を、リビア軍のチャド駐留とリビアによるBET県全体の『事実上の』併合をフランスは許容する意向」と誤って受け取り、これはチャドの全ての諸勢力・アフリカ統一機構(OAU)・国際連合に確実に反対される行動であった。カダフィのこのしくじりは、暫定国民連合政府(GUNT)の造反と1986年の新たなフランス軍派遣に繋がり、ついにはカダフィに敗北をもたらすこととなった。
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