フランスの政教分離(ライシテ)
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「政教分離原則」の記事における「フランスの政教分離(ライシテ)」の解説
詳細は「ライシテ」を参照 フランスの政教分離はライシテ (laïcité) の原則に基づく。ライシテとは国家の非宗教性、宗教的中立性の原則を意味するものであったが、1958年憲法では法の下の平等、差別の禁止、信条の尊重を含む概念へと強化され、法概念としては国家の非宗派性、教会と国家の分離などを含んでおり、あいまいさという柔軟性も持っている。カトリック教会のような特定の宗派を優遇も冷遇もするのでなく、諸宗派に対して中立的で平等な対応をとることを定めた制度である。奥山倫明によれば、ライシテは国家と宗教との関係を定めたものなので、これを日本の憲法学者の宮澤俊義が述べたような「国家があらゆる宗教から絶縁し、すべての宗教に対して中立的な立場に立つこと、すなわち、宗教を純然たる『わたくしごと』にすることが要請される」という厳しい分離を解釈していた意味で「政教分離」と呼ぶことは難しいと指摘している。 第三共和制のもとで修道会が廃止され、公教育機関の非宗教化と、教会と国家との分離がはかられた。フェリー教育相は1881年に公教育を無償化するとともに、初等教育の非宗教性が定められた(フェリー法)。1884年の憲法改正では議会開会の祈りは廃止された。1886年には初等教育の公立学校から聖職者が排除された(ゴブレ法)。ピエール=ワルデック=ルソーは1901年に修道会を政府認可制にした。1902年にエミール・コンブ首相はカトリック系学校約12,500校を閉鎖。これは教会財産の国家接収を意味し約3万人の修道士女が国外へ亡命した。1904年にルベ大統領がイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を訪問するとローマ教皇庁はフランス政府と国交を断絶したが、1905年「教会と国家の分離に関する法律」(Loi de séparation des Eglises et de l'Etat) が成立し、それまでの政教条約がフランス政府によって一方的に破棄された。ただし、この1905年の教会国家分離法では自由な礼拝が保護され、さらに礼拝への公金支出禁止についての特例として学校の寄宿舎・病院・監獄・兵営には司祭の配置が認められており、厳密な国家と宗教との分離ではなかった。 ライシテが憲法に規定されたのは、1946年の第四共和制憲法である。1958年成立のフランス第五共和国憲法に引き継がれた。 La France est une République indivisible, laïque, démocratique et sociale. Elle assure l'égalité devant la loi de tous les citoyens sans distinction d'origine, de race ou de religion.フランスはライックで、民主的または社会的な不可分の共和国である。出生、人種、または宗教の差別なく、すべての市民に対し法の前の平等が保障される。 — Constitution du 4 octobre 1958 ,Article 1 ルソーが論じた市民宗教は第三共和政で禁止されたが、21世紀現在のライシテを「共和主義的市民宗教」とする指摘もある。ボベロはライシテが国民のアイデンティティとなって、「共和国の諸価値」と矛盾するイスラムの方に問題があるとするように、ここには「市民宗教」が持つ危険性が現れているという。現代では「異教徒を排除してはならない」という宗教的寛容が、イスラム教徒の移民問題で議論されているが、移民反対論者はかつてのようなレイシズム的な排外主義ではなくて、リベラルな価値観を受容しない人々を排除しようとしているとも指摘されている。
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