フランスの敗戦に関する考察
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/15 09:15 UTC 版)
「1798年5月30日の海戦」の記事における「フランスの敗戦に関する考察」の解説
この交戦でのフランスの死傷者は、コンフィアントが焼かれてしまったためはっきりしない。しかし乗り込み部隊の一員であるアクロムの報告書によると、かなり多くの死傷者が出たようである。イギリスの犠牲者は取るに足らないもので、一人の戦死者も出さず、また重傷者も出なかった。ヒドラに少し損害があったが、それ以外の小型艦は無事だった。フランスの海尉ルコリエの指揮は、戦後の最も大きな批判の対象となり、フランスの史書『ヴィクトワール・アンド・コンケット』では、戦闘の結果がはっきりもしないうちに、ルコリエは座礁したコンフィアントと艦長プレヴューに支えることができなかったとして告訴されている。イギリスの歴史家ウィリアム・ジョーンズは、ルコリエをあまり批判しておらず、フランスの敗北への批判の多くを乗艦であるプレヴューに向けている。フランスの、自国の海岸に限定されたこの行動は、この地域におけるフランス軍の発展に深刻な影響をもたらした。そしてフランスによる、実行可能なイギリス侵攻が不成功に終わるのに、大きな役割を果たしたのである。
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