フランスの政治危機とラインラント進駐
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「フランス第三共和政」の記事における「フランスの政治危機とラインラント進駐」の解説
1929年にアメリカ合衆国で起こった株価の大暴落が引き金となり、ヨーロッパ各国にまで不況が広がった。いわゆる世界恐慌である。このことがドイツにおけるヒトラー政権の成立を引き起こし、フランスは深刻な安全保障上の危機を迎えることになった。1932年にはフランスでも世界恐慌の影響が出始めた。植民地や友好国とフラン通貨圏をきずいたが、情勢は安定しなかった。 1932年5月6日、ポール・ドゥメール大統領(急進党)が白系ロシア移民パヴェル・ゴルギュロフ(フランス語版、ロシア語版、英語版)に銃撃され、翌日死亡した(ポール・ドゥメール暗殺事件(フランス語版))。選挙(フランス語版、英語版)(5月1日、5月8日)によって5月10日に就任した新大統領アルベール・ルブラン(民主同盟(フランス語版、英語版))のもとで、エドゥアール・エリオ内閣が誕生した。1933年末に起きた疑獄事件であるスタヴィスキー事件をきっかけに翌1934年1月27日に急進社会党のカミーユ・ショータン内閣が総辞職。事態は収まらず、極右団体アクション・フランセーズやクロア・ド・フー、さらにはフランス共産党までもが国会周辺に集まり声高に政府批判を展開。その一部は議場にまで雪崩れ込み、事態は緊迫した。この暴動で16名の死者と2,300余名の負傷者(人数は資料によって若干異なる)を出し、1934年2月6日の危機がとどめとなり、ダラディエ内閣は議会からの信任を得たにも拘らず、責任を取って2月7日に総辞職した。1934年2月9日に次のガストン・ドゥメルグ内閣が誕生した。 1934年10月9日にユーゴスラビア国王アレクサンダル1世とフランス外相ルイ・バルトゥー(フランス語版、英語版)が、内部マケドニア革命組織のヴラド・チェルノゼムスキ(英語版)によってマルセイユで暗殺された(アレクサンダル1世とルイ・バルトゥー暗殺事件(フランス語版))。バルトゥーの後任の外相にはピエール・ラヴァルが就任した。 翌1935年3月16日にヒトラーが再軍備宣言を行うと、4月にラヴァル外相はイタリア・英国・フランスによる連携「ストレーザ戦線」で対抗した。フランスはドイツに東西から圧力をかけるため、中央ヨーロッパ諸国の小協商との関係強化や5月2日の仏ソ相互援助条約(フランス語版、ロシア語版、英語版)成立を図る。6月18日にイギリスが、ソ連への牽制を狙ってナチスドイツと英独海軍協定(ドイツ語版、英語版)を結んだことで、然したる圧力も掛けられぬまま、三国の連携「ストレーザ戦線」は崩壊した。12月に第二次ロンドン海軍軍縮会議が英・米・仏の三国のみで行なわれた。 翌1936年3月7日に、ドイツは仏ソ相互援助条約を理由に、ラインラント進駐に踏み切る。これに対してもアルベール・サロー(フランス語版、英語版)首相が消極的姿勢を示したことで中央ヨーロッパ諸国の小協商の信用を失い、フランスとの同盟を締結していたベルギーは中立宣言を行うに至る。
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