フランスの改革派、ユグノーとは? わかりやすく解説

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フランスの改革派、ユグノー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 23:42 UTC 版)

サン・バルテルミの虐殺」の記事における「フランスの改革派、ユグノー」の解説

詳細は「ユグノー」を参照 1517年マルティン・ルター発表した95ヶ条の論題』を契機神聖ローマ帝国領域現在のドイツ)で宗教改革運動始まった帝国プロテスタント諸侯カトリック諸侯とに分裂して対立した抗争シュマルカルデン戦争1546年1547年)に勝利した皇帝カール5世カトリック陣営優勢に終わるかに見られた。だが、1552年フランス結んだザクセン選帝侯モーリッツ反乱起こして皇帝襲撃しカール5世大敗喫してプロテスタント信仰ルター派のみ)を容認するアウクスブルクの和議1555年)を余儀なくされるスペイン・ハプスブルク家領地であったネーデルラントにもプロテスタント浸透しており、スペイン王フェリペ2世アルバ公派遣して弾圧による恐怖政治応じたが、1568年北部ネーデルラント7州が反乱起こしオランダ独立戦争八十年戦争)が勃発するフランスにおいても宗教改革通じ福音主義思想現れた。その最初期のものは、ルフェーヴル・デタープルによるパウロ書簡注解1512年)やフランス語訳新約聖書1523年)があげられる。しかしパリ大学神学者パリ高等法院から弾圧され、デタープルはストラスブール亡命するなど、改革運動迫害加えられた。だが改革派急速に影響力増大させ、1550年代にはカルヴァン指導の下で組織化図られるようになった国王フランソワ1世は姉のマルグリット人文主義改革運動好意的であったためか、当初改革派理解示していたが、檄文事件を境に弾圧回りパリ高等法院異端審問委員会設置した。さらに後継者アンリ2世1547年特設異端審問法廷設け弾圧強化した。 これに対し改革派1559年第1回全国改革派教会会議開催し信仰箇条教会規則定めて一応の組織化果たしたプロテスタント血統親王であるブルボン家ナバラ王アントワーヌ盟主戴き、後により信仰に熱心なその弟のコンデ公ルイ中心人物となった1559年馬上槍試合での事故によりアンリ2世死去すると、15歳フランソワ2世即位し王妃メアリー・スチュアートスコットランド女王メアリー)の伯父であるギーズ公フランソワロレーヌ枢機卿実権掌握した熱烈なカトリックであるギーズ家プロテスタント迫害行い、これに反発した不平貴族ギーズ家打倒を図るが、逆襲を受け多数プロテスタント貴族処刑されてしまう(アンボワーズの陰謀)。母后カトリーヌ・ド・メディシス召喚され宮廷出仕したコンデ公逮捕された。 1560年に僅か1年半在位フランソワ2世病死し幼少シャルル9世即位すると、母后カトリーヌは本来は摂政となるべき第一血統親王ナバラ王アントワーヌ取引行いナバラ王辞退によりカトリーヌ摂政となり、代わりにコンデ公釈放された。実権握ったカトリーヌ大法官ミシェル・ド・ロピタルを重用しプロテスタントとの融和政策を採る。カトリーヌカトリックとプロテスタント代表者による宗教会談ポワシー会談)を開き宗教融和を図るが、彼女の楽観的な見通し反して両者信仰上の相違大きく決裂終わったユグノーhuguenot)というフランス・プロテスタントの呼称カトリックとプロテスタントとの論争の際に生まれドイツ語のEidgenosse(アイトゲノッセ、盟友の意味)から生まれた蔑称である。

※この「フランスの改革派、ユグノー」の解説は、「サン・バルテルミの虐殺」の解説の一部です。
「フランスの改革派、ユグノー」を含む「サン・バルテルミの虐殺」の記事については、「サン・バルテルミの虐殺」の概要を参照ください。

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