フランスの探検と植民地化(1528年 - 1756年)
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「ルイジアナ州の歴史」の記事における「フランスの探検と植民地化(1528年 - 1756年)」の解説
詳細は「フランス領ルイジアナ」を参照 ヨーロッパ人探検家が最初にルイジアナを訪れたのは1528年のことだった。スペインの遠征隊(パンフィロ・デ・ナルバエス指揮)がミシシッピ川の水源を見付けた。1541年エルナンド・デ・ソトの遠征隊がこの地域を通った。スペインのルイジアナに対する興味はしばらく眠っていた。17世紀遅く、フランスの遠征隊は、主権、宗教および商売の目的を持って、ミシシッピ川とメキシコ湾岸に足がかりを築いた。フランスはその最初の開拓地をもって北アメリカの広大な土地の領有権を主張し、メキシコ湾からカナダに至るフランス植民地帝国の確立に乗り出した。 フランス人探検家ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールは、1682年にこの地域をフランス王ルイ14世に因んでルイジアナと名付けた。1699年、最初の恒久的開拓地であるモールパ砦(現在のミシシッピ州オーシャンスプリングス)がビロキシーの近くに、カナダから来たフランス軍の士官ピエール・ル・モアン・ディベルヴィルによって建設された。 フランス領ルイジアナは元々ミシシッピ川両岸から北のカナダの領地までに対してすべて領有権が主張された。現在在る州のルイジアナ州、ミシシッピ州、アーカンソー州、オクラホマ州、ミズーリ州、カンザス州、ネブラスカ州、アイオワ州、イリノイ州、インディアナ州、ウィスコンシン州、ミネソタ州、ノースダコタ州およびサウスダコタ州は広大なフランス領ルイジアナの一部だった。 ナカタシュの開拓地(現在のルイジアナ州北西部レッド川沿い)は、1714年にルイ・ジュシェロー・ド・サンドニによって設立され、ルイジアナ植民地を構成する領土における最古の恒久的開拓地となっている。フランスの開拓地には2つの目的があった。テキサスでスペインとの交易を確立することと、スペインがルイジアナに侵入するのを防ぐ事だった。またオールド・サンアントニオ道路(時にエル・カミノ・レアルすなわち王の幹線道路と呼ばれる)の北の終点がナカタシュにあった。この開拓地は間もなく繁栄する川港と道路の交差点となり、川に沿って広大な綿花の王国を育てていった。時代と共に、農園主たちは大規模なプランテーションを開発し、成長する町には立派な家を建て、このやり方がニューオーリンズや他の町で繰り返された。 ルイジアナのフランス人開拓地はさらなる探検や交易拠点の役に立った。交易拠点はミシシッピ川やその支流の岸に集中し、ルイジアナから北のイリノイ郡と呼ばれる地域まで、イリノイ州ピオリアやミズーリ州セントルイスの近くにもあった。 当初、アラバマ州モービルやミシシッピ州ビロキシーが植民地の首都として相次いで機能した。1722年、フランスは交易や軍事的な利益にとってミシシッピ川が重要であることを認識し、ニューオーリンズを文民と軍事の権威者の居る所とした。 ルイジアナ植民地の開拓者はフランス人ばかりではなかった。1720年代ドイツ人移民がミシシッピ川沿いに入植し、その地域はジャーマン・コーストと呼ばれた。 フランスとセネガルの歴史的および管理的な結びつきにより、「フランス人奴隷貿易者によってルイジアナに連れて行かれた奴隷の3分の2はセネガンビアからの者であった。」このセネガル川とガンビア川の間の地域には歴史的にも密接な関わりのある人々がいた。主要言語のうちの3つ、セリア語、ウォロフ語およびプラール語は関係があり、東のマンデ人が話すマリンケ語は、その人々の間で「互いに通じる」ものだった。アフリカの一つの地域からの人々が集中したことは、ルイジアナのクレオール文化を強く形づけることになった。
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