だいさん‐きょうわせい【第三共和制】
第三共和政
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ナビゲーションに移動 検索に移動第三共和政(だいさんきょうわせい)、第三共和国(だいさんきょうわこく)
- フランス第三共和政(1871年 - 1940年)
- チェコスロバキア第三共和政(1945年 - 1948年)
- フィリピン第三共和政(1946年 - 1972年)
- 大韓民国第三共和政(1963年 - 1972年)⇒第三共和国 (大韓民国)
- 第3共和国 (テレビドラマ) - 第三共和国時代の政治を描いた大韓民国のテレビドラマ作品。
- ポルトガル第三共和政(1974年 - )
- ギリシャ第三共和政(1974年 - )⇒現在のギリシャ共和国
- ガーナ第三共和政(1979年 - 1993年)
- トーゴ第三共和政(1979年 - 1992年)
- ハンガリー第三共和政(1989年 - )
- ポーランド第三共和政(1989年 - )
- アルメニア第三共和政(1993年 - )
- マダガスカル第三共和政(1993年 - 2009年)
- ニジェール第三共和政(1993年 - 1996年)
- コンゴ第三共和政(1997年 - )
なお、第二共和政が倒れたスペイン(現在は立憲君主制)においては、共和制移行論者が「第三共和政」という表現を使うことがある。
関連項目
第三共和制
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1991年5月から1992年1月まで、ゼネラルストライキや暴動が発生。ほとんどの経済活動が停止してしまう事態になった。ラツィラカ大統領は、第三共和制への移行を約束した。1992年8月、憲法改正が国民投票によって承認され、国名がマダガスカル民主共和国からマダガスカル共和国へと変更されると共に、大統領任期も7年から5年に短縮され、三選禁止事項も盛り込まれた。 それでもラツィラカ大統領は政権への執着を見せ、首都アンタナナリヴにつながる鉄道橋を爆破して、首都を封鎖した。選挙を前に国民の不安は増大したが、1993年2月アルベール・ザフィが当選を果たし、ラツィラカ政権を打倒した。 ザフィは、第三共和制初代大統領に選出されたものの、実務経験のないザフィ大統領は、政治および行政面で国民が期待したような成果をあげることができなかった。この結果、ザフィ大統領は1996年7月に、首相罷免を画策したなど権力を乱用したという理由で議会から罷免の告発を受ける。 1996年12月、15人の候補者により大統領選挙が行われる。決選投票の結果、ザフィ大統領は49.3%の得票を得ながら落選。このとき50.7%の得票を得たディデル・ラツィラカが再選を果たした。この結果は世論を驚かせた。 2001年、実業家でアンタナナリヴの市長でもあったマーク・ラヴァルマナナが大統領選挙に立候補する。彼の公約は、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトをモデルに経済復興と前政権の腐敗一掃を掲げた。 2001年12月に大統領投票が行われ、ラヴァルマナナは初回選挙における過半数獲得を主張。しかし、ラツィラカはそれを認めず、決選投票への移行を主張。 ラヴァルマナナが、大統領への宣誓を行うと、ラツィラカは非常事態を宣言し、戒厳令をひいた。ラツィラカと彼の閣僚は、トアマシナに臨時首都を置き、一国に2人の大統領がいる事態になった。 軍部は、ラヴァルマナナ支持を示したが、ラツィラカは激しく抵抗。2002年4月に憲法最高裁判所の判決により、ラヴァルマナナの勝利が確定する。7月、ラヴァルマナナ派軍隊のトゥアマシナ市内進行に伴い、ラツィラカと近親はフランスへと逃亡した。 ラヴァルマナナ大統領就任後、2009年1月頃から反政府指導者アンドリー・ラジョエリナが抗議デモを行い、ラヴァルマナナは国外へ亡命。これを受けて、ラジョエリナが暫定大統領となった(マダガスカル・クーデター)。
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