第三共和国憲法の成立と三帝同盟の切り崩し
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「フランス第三共和政」の記事における「第三共和国憲法の成立と三帝同盟の切り崩し」の解説
1875年2月に憲法が制定され、上院(元老院)と下院(代議院、普通選挙による)による二院制がとられた。また、任期7年の共和国大統領が名目的元首となり両院による多数決で選出されることが定められた。内閣が行政権を握り、普通選挙制の下院の力が強かった。 ドイツ帝国のビスマルク宰相はドイツの安全の為にフランスの国際的孤立を図った。クリミア戦争以前の列強体制再構築の為に、1873年にドイツはオーストリア・ロシアと三帝同盟を結んでいた。1875年4月8日に『ポスト』紙事件(ドイツ語版、フランス語版)が持ち上がり、ドイツ国内の世論に押されたビスマルクは、予防戦争(ドイツ語版、フランス語版)を行なおうとして黙認していた。しかしフランス外相ルイ・ドゥカズの巧みな外交によって、イギリスのディズレーリ首相とロシアのゴルチャコフ外相を味方につけてフランスを支持してもらい、ドイツの対仏強硬姿勢を取り下げさせることに成功した。ロシア皇帝アレクサンドル2世とゴルチャコフは自らベルリンを訪問して独仏関係の調停に乗り出している。こうしてビスマルクの野望は、三帝同盟の切り崩しに遭い潰えた。 1876年2月20日と3月5日に第三共和国憲法に従い議会選挙(フランス語版、英語版)が行われると、上院では王党派、下院では共和派が優勢になった。こうした中、王党派の立場をとる大統領のマクマオンは、穏健共和派(フランス語版、英語版)のジュール・シモン(フランス語版、英語版)を首相に選ばざるをえなかった。その後、大統領と下院の対立が深まり、根っからの王党派であったマクマオンは、翌1877年の5月16日の危機(フランス語版、英語版)(フランス語: Crise du 16 mai 1877)で5月17日にシモン首相を解任した。10月に議会を解散させて再び議会選挙(フランス語版、英語版)を実施したが、共和派の勢力が衰えることはなく、外交の切り札だったルイ・ドゥカズ外相をも失った。 1876年7月にはロシアのゴルチャコフ外相とオーストリア・ハンガリーのアンドラーシ首相とは、秘密協定のライヒシュタット協定(英語版)を締結して、ロシアのベッサラビアとコーカサス、オーストリア・ハンガリーのボスニア・ヘルツェゴビナを、それぞれ獲得することをバルカン半島をめぐって対立するロシアとの中立協定の条件にしていた。露土戦争でオーストリア・ハンガリーは中立を守り、1878年3月3日にロシアはオスマン帝国とサン・ステファノ条約を締結していた。 1878年のベルリン会議で、ドイツのビスマルクは中立を宣言していたが、『ポスト』紙事件以来、ゴルチャコフ外相とは敵対関係になっていた。オーストリア・ハンガリーのアンドラーシ首相は、アンドラーシ外交と呼ばれるようになる外交方針の転換を行い、ロシアの南下政策に反対するイギリスのディズレーリ首相とともに、ロシアへの宣戦布告をチラつかせてサン・ステファノ条約の破棄を迫り、ビスマルクもこれに肩入れした。アンドラーシ首相は、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ獲得に国内で批判が高まったことから、1879年10月2日に辞任を余儀なくされた。ロシアは三帝同盟から離脱し(1879年10月7日、独墺同盟)、フランスは外交的孤立から脱することになった。ゴルチャコフ外相は、反独外交を志向するようになり、このあとに締結される露仏同盟の基礎を築いていくことになる。
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