アンドラーシ外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/17 00:38 UTC 版)
「アンドラーシ・ジュラ」の記事における「アンドラーシ外交」の解説
アンドラーシは自由主義派の「デアーク党」領袖となったデアークと協力して国内政治をまとめ、1871年11月14日首相辞任とともにオーストリア政府の外相に就任したが、この職はオーストリアとハンガリー王国の共通閣僚会議の議長として両国共通の外交を担当していた。アンドラーシはロシア帝国およびスラヴ系諸国に対抗するため、ドイツ帝国との提携を進めたが、これはドイツ帝国成立に伴い二重帝国にとっては「ドイツ(統一)問題」よりも「バルカン問題」の比重が高くなり、同時に、帝国内のスラヴ系民族の独立運動を煽る汎スラヴ主義やロシアのバルカン南下策がハンガリーの領土保全を脅かしかねないという判断によるものであった。それと同時に彼はロシアとの部分的和解にも努め、1872年には独露との三帝同盟を締結し1877年の露土戦争には中立を守った。 1878年のベルリン会議でアンドラーシ外交は、ボスニア=ヘルツェゴヴィナの行政権とノヴィ・パザール(セルビアとモンテネグロの回廊地帯)の占領権を獲得するなどの成果を上げたが、オーストリアではアンドラーシによる議会無視の外交がドイツ人の自由主義派から反発され、ハンガリーでもスラヴ系住民の比率を増やすことになるボスニア=ヘルツェゴヴィナの獲得には批判が高まった。また、この会議の結果、要求が通らなかったロシアが三帝同盟から離脱したため同盟は崩壊したが、アンドラーシはドイツとの二帝同盟を締結(1882年にロシアが参加して三帝協商に発展する)、その翌日の1879年10月2日に外相を辞任し政界を引退した。彼の退任後、オーストリア=ハンガリーはグスタフ・カールノキ外相の下でロシアとの提携を重視する外交を進めていった。アンドラーシ外交は、バルカンにおけるオーストリア=ハンガリーの利権を一時的に拡大することには成功したが、長期的に見るとボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合に帰着することによってロシアやスラヴ諸国との非和解的対立を招き、(第一次世界大戦による)帝国解体の原因を作り出すことになった。
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