アンドラーデの弟と友好関係の崩壊
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「フェルナン・ピレス・デ・アンドラーデ」の記事における「アンドラーデの弟と友好関係の崩壊」の解説
フェルナン・ピレス・デ・アンドラーデには、シモン・デ・アンドラーデという弟がいた。彼は1519年8月に3隻のジャンク船からなる小艦隊を率いてマラッカを発ち、中国沿岸に現れた。シモンは早速タマンに要塞を築いてしまい、明当局の反感を買った。その直後、シモンは一人のポルトガル人を仰々しく処刑するとともに他の外国人(小タイ族を中心とした東南アジア人)をタマンでの交易から締め出し、無用の注目を集めた。明の役人がタマンにやってきて島に対する支配権を主張した際、シモンはその役人を殴り、帽子を叩き落した。 明側がポルトガルに対する態度を硬化させた最大の理由は、ポルトガル人が中国人の子供をさらって食べているという噂が流れたことだった。シモンは幼い中国の奴隷を買ったりさらったりしているということで他のポルトガル人からも悪評を買っていた。実際、裕福な中国人の子女が消え、後になってはるか西方インドのディウでポルトガル当局に発見されるという事例もあった。1520年9月までのシモンの中国滞在中には彼の行動に関する公式な報告書が書かれていない。しかしシモンの悪い噂は次第にポルトガル人全体を対象とするようになり、ついには北京の宮廷にまで達した。宮廷は直ちにポルトガル人を諸々の嫌疑について詰問した。 シモン・デ・アンドラーデは広東を離れた後、厦門や寧波にも入植地を建設した。彼は寧波でも明の法に逆らい続けた。1545年に彼の部下が中国人との商取引でだまされた際には、シモンは武装した一団を派遣して街を掠奪し、地元の女性や少女を捕虜とした。激怒した寧波の住民は結束して反撃し、シモン配下のポルトガル人たちを殺した。同様の事件は後の1549年にも起きた。コエーリョ・デ・ソウサが福建・錦州の裕福な在留外国人の邸宅を制圧したので地元当局がポルトガル人への補給を断つと、彼らは明の兵を攻撃し、周囲の村々を漁りまわった。ついに当局がポルトガル人の船13隻を焼き払い、生き残ったポルトガル人30人は命からがらマカオの居留地に逃げ込んだ。
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