第三共和政初期とは? わかりやすく解説

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第三共和政初期(1871年 - 1883年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 06:01 UTC 版)

レジティミスム」の記事における「第三共和政初期(1871年 - 1883年)」の解説

19世紀後半になっても、レジティミスム多数エリート階層政治主張重要な一部であり、アンシャン・レジーム以来貴族たちの大部分から熱烈に支持されていた。1870年パリ包囲戦1871年パリ・コミューンの後、レジティミストたちはもう一度だけ政治的優位手に入れることが出来た1871年8月6日男子普通選挙制の下で行われた民主的選挙で、国民議会では王党派諸県支持得て多数派占めたパリのみは全て共和主義者議員当選した)。当時、もはやシャンボール伯子供残さず死去することがほぼ確実視されていたレジティミスト陣営では、オルレアニスト陣営との合同進めていく用意ができていた。自由主義者の集まるオルレアニスト陣営シャンボール伯国王認めオルレアン家王位請求者であるパリ伯ルイ・フィリップ・アルベールもシャンボール伯フランス王家の家長認めた。その見返りに、レジティミストたちも会議決定により、シャンボール伯没した後はパリ伯後継国王となることを認めた。しかし、フランス君主制支持者たちにとっては不運なことに、シャンボール伯アンシャン・レジーム象徴であるフルール・ド・リス紋章捨てて当時フランス国旗となっていたトリコロールフランス王国旗に使うことを拒んだために、その死まで王制への移行実現することが出来なかった。そのうち君主制支持者たちは、共和制転覆狙って1877年5月16日危機引き起こした失敗し、それ以後命脈保ち続けたものの、長く議会での優位失ったシャンボール伯没後ブルボン王家分枝のうち最も正統王朝血統の近い家系は、スペイン王フェリペ5世系統ブルボン=エスパーニュ家とその支流)のみとなった。しかしフェリペ5世男系子孫1713年ユトレヒト条約締結以後フランス王位継承権放棄させられた形となっていたため、フランスレジティミスト多くは、シャンボール伯没後パリ伯その子孫オルレアン家)を正統王位請求者見なすようになった。 ところがレジティミスト中には権限喩越 (Ultra vires) であり、か基本的なフランス王継承法に反しているとして、フェリペ5世王位継承権放棄否認し、カルリスタと呼ばれる党派支持されスペイン王位を請求していた、1883年以後ブルボン家の嫡系にフランス王名乗る権利があると主張する者も存在したブルボン家「嫡系」の当主積極的にフランス王位を主張しなかったこともあって、この集団属する者はごくわずかだった。

※この「第三共和政初期(1871年 - 1883年)」の解説は、「レジティミスム」の解説の一部です。
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