第三共和政初期(1871年 - 1883年)
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「レジティミスム」の記事における「第三共和政初期(1871年 - 1883年)」の解説
19世紀後半になっても、レジティミスムは多数のエリート階層の政治主張の重要な一部であり、アンシャン・レジーム期以来の貴族たちの大部分から熱烈に支持されていた。1870年のパリ包囲戦と1871年のパリ・コミューンの後、レジティミストたちはもう一度だけ政治的優位を手に入れることが出来た。1871年8月6日に男子普通選挙制の下で行われた民主的選挙で、国民議会では王党派が諸県の支持を得て多数派を占めた(パリのみは全て共和主義者の議員が当選した)。当時、もはやシャンボール伯が子供を残さずに死去することがほぼ確実視されていたレジティミスト陣営では、オルレアニスト陣営との合同を進めていく用意ができていた。自由主義者の集まるオルレアニスト陣営はシャンボール伯を国王と認め、オルレアン家の王位請求者であるパリ伯ルイ・フィリップ・アルベールもシャンボール伯をフランス王家の家長と認めた。その見返りに、レジティミストたちも会議決定により、シャンボール伯が没した後はパリ伯が後継の国王となることを認めた。しかし、フランスの君主制支持者たちにとっては不運なことに、シャンボール伯はアンシャン・レジームの象徴であるフルール・ド・リスの紋章を捨てて当時フランス国旗となっていたトリコロールをフランス王国旗に使うことを拒んだために、その死まで王制への移行を実現することが出来なかった。そのうち君主制支持者たちは、共和制転覆を狙って1877年に5月16日危機を引き起こしたが失敗し、それ以後も命脈を保ち続けたものの、長く議会での優位を失った。 シャンボール伯の没後、ブルボン王家の分枝のうち最も正統王朝に血統の近い家系は、スペイン王フェリペ5世の系統(ブルボン=エスパーニュ家とその支流)のみとなった。しかしフェリペ5世の男系子孫は1713年のユトレヒト条約の締結以後、フランスの王位継承権を放棄させられた形となっていたため、フランスのレジティミストの多くは、シャンボール伯の没後はパリ伯とその子孫(オルレアン家)を正統な王位請求者と見なすようになった。 ところがレジティミストの中には、権限喩越 (Ultra vires) であり、かつ基本的なフランス王位継承法に反しているとして、フェリペ5世の王位継承権放棄を否認し、カルリスタと呼ばれる党派に支持されてスペイン王位を請求していた、1883年以後のブルボン家の嫡系にフランス王を名乗る権利があると主張する者も存在した。ブルボン家「嫡系」の当主が積極的にフランス王位を主張しなかったこともあって、この集団に属する者はごくわずかだった。
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