第三共和政期の政党活動
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「トルコの政党」の記事における「第三共和政期の政党活動」の解説
1980年の軍事クーデターにより全ての政党は解散処分となり、首相のデミレル以下、主要な政治家は拘束されて、政治活動を禁止された。1983年の民政移管時に行われた総選挙では、軍部は民族主義者民主党を設立して、議会での影響力確保を図ったが、クーデタ前の主要4政党(共和人民党、公正党、国民救済党、民族主義者行動党)から参加者を集めたトゥルグト・オザルの祖国党が国民の支持を集めて単独過半数の議席を獲得し、オザル政権が発足した。 1980年代に行われた2度の総選挙では、祖国党が単独過半数の議席を獲得し、オザルの長期政権が実現したが、1980年代半ばには、クーデター前の主要政党が、名前を変えてほぼ復活し、トルコ政局は、再び他党乱立の様相を呈するようになった。こうした傾向は、1987年の国民投票で、クーデターで政治活動を禁止された旧政治家の公職追放が解除され、エジェヴィト、デミレル、エルバカン、テュルケシら旧政治家が公式に復権したことで強まった。 中道左派勢力は、旧共和人民党の右派が、1983年に人民主義党を設立し、総選挙で第二党となる議席数を確保しており、イスメト・イノニュの子エルダル・イノニュを中心とした旧共和人民党左派も、1984年に社会民主党を設立し、両党は、1985年に合流して、社会民主人民主義党となった。一方、元首相のエジェヴィトはこれに対抗して旧共和人民党左派を率いて民主左派党を設立、中道左派勢力は分裂した。 中道右派勢力も、公正党の後継政党である正道党の党首にデミレルが復帰し、祖国党との間で支持勢力を奪い合う対立が生まれた。一方、旧国民救済党、旧民族主義者行動党の支持者も、1983年には、それぞれ福祉党、保守党を設立し、党勢を再び拡大していった。 1991年の総選挙では、正道党が第一党となったものの、祖国党、社会民主人民主義党、福祉党の4政党が議席を分け合い、指導的な政党が現れない不安定な政局が発生した。当初は、イスラーム系政党である福祉党を排除した3党の組み合わせによる連立政権が続いたが、政権を担った3党の汚職事件が発覚し、3党の相互対立に対する国民の不信が深まると、消極的選択肢として、政権を担当していない福祉党に対する国民の期待が高まった。1995年の総選挙で、福祉党は議会第一党となり、大統領のデミレルは福祉党への組閣要請を余儀なくされた。 福祉党は、正道党との連立で、1996年に政権に就いたが、宗教勢力の伸張を警戒する軍部が国家安全保障会議を通して圧力を加え、わずか1年で内閣総辞職に追い込まれた。福祉党は世俗主義の侵犯を理由に起訴され、憲法裁判所判決により1998年に解党となった。福祉党議員の大半は、美徳党に移籍したが、美徳党にも2001年に解党判決が出たため、支持者は公正発展党と至福党に分裂することになった。
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