第三共和政期の政党活動とは? わかりやすく解説

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第三共和政期の政党活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 02:53 UTC 版)

トルコの政党」の記事における「第三共和政期の政党活動」の解説

1980年軍事クーデターにより全ての政党解散処分となり、首相のデミレル以下、主要な政治家拘束されて、政治活動禁止された。1983年民政移管時に行われた総選挙では、軍部民族主義者民主党設立して議会での影響力確保図ったが、クーデタ前の主要4政党共和人民党公正党国民救済党民族主義者行動党)から参加者集めたトゥルグト・オザル祖国党国民の支持集めて単独過半数議席獲得しオザル政権発足した1980年代行われた2度総選挙では、祖国党単独過半数議席獲得しオザル長期政権実現したが、1980年代半ばには、クーデター前の主要政党が、名前を変えてほぼ復活しトルコ政局は、再び他党乱立様相を呈するようになったこうした傾向は、1987年国民投票で、クーデター政治活動禁止された旧政治家公職追放解除され、エジェヴィト、デミレル、エルバカン、テュルケシら旧政治家が公式に復権したことで強まった中道左派勢力は、旧共和人民党右派が、1983年人民主義党を設立し総選挙第二党となる議席数を確保しており、イスメト・イノニュの子エルダル・イノニュを中心とした旧共和人民党左派も、1984年社会民主党設立し、両党は、1985年合流して社会民主人民主義となった一方元首相のエジェヴィトはこれに対抗して共和人民党左派率いて民主左派党設立中道左派勢力分裂した中道右派勢力も、公正党後継政党である正道党党首にデミレルが復帰し祖国党との間で支持勢力奪い合う対立生まれた一方旧国救済党、旧民族主義者行動党支持者も、1983年には、それぞれ福祉党保守党設立し党勢を再び拡大していった。 1991年総選挙では、正道党第一党となったものの、祖国党社会民主人民主義党、福祉党の4政党議席分け合い指導的な政党現れない不安定な政局発生した当初は、イスラーム政党である福祉党排除した3党の組み合わせによる連立政権続いたが、政権担った3党の汚職事件発覚し、3党の相互対立対す国民不信が深まると、消極選択肢として、政権担当していない福祉党対す国民期待高まった1995年総選挙で、福祉党議会第一党となり、大統領のデミレルは福祉党への組閣要請余儀なくされた。 福祉党は、正道党との連立で、1996年政権就いたが、宗教勢力伸張警戒する軍部国家安全保障会議通して圧力加え、わずか1年内閣総辞職追い込まれた。福祉党世俗主義侵犯理由起訴され憲法裁判所判決により1998年解党となった福祉党議員大半は、美徳党移籍したが、美徳党にも2001年解党判決出たため、支持者公正発展党至福党分裂することになった

※この「第三共和政期の政党活動」の解説は、「トルコの政党」の解説の一部です。
「第三共和政期の政党活動」を含む「トルコの政党」の記事については、「トルコの政党」の概要を参照ください。

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