第三共和政期(1870年-1940年)
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「ライシテ」の記事における「第三共和政期(1870年-1940年)」の解説
1871年 - レオン・ガンベタが教育とカトリックの分離を訴える。 1879年 - ジュール・フェリーが教育相に就任。 1881年6月16日 - 初等教育の無償化。 1882年3月18日 - 初等教育の義務制および公教育の非宗教性(1881年法と1882年法を併せてジュール・フェリー法と呼ぶ)。 1886年 - 公立学校教師を非聖職者に限定する法律(ゴブレ法)。 1901年 - ピエール・ワルデック=ルソー首相により、修道会を認可制とする結社法を制定。 1902年 - エミール・コンブ首相により、カトリック系私立学校2500校が閉鎖。 1903年 - 新たに1万校を閉鎖。(5800校は形態を変えて再開。) 1904年 - フランスとローマ教皇庁の国交断絶。 1905年 - 政教分離法制定。国家が信教の自由を認めると同時に、いかなる宗教も国家が特別に公認・優遇・支援することはなく、また国家は公共秩序のためにその宗教活動を制限することができることが明記される。(ナポレオンのコンコルダ以来の「公認制」の破棄。) 1921年 - フランスとローマ教皇庁との関係修復。
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第三共和政期(1870年 - 1940年)
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「オルレアニスム」の記事における「第三共和政期(1870年 - 1940年)」の解説
普仏戦争の敗北に伴って第二帝政が崩壊すると、ボナパルティストを嫌い共和主義を恐れる人々は選挙で君主制支持者に投票し、結果として1872年12月にボルドーで開かれた国民議会は王党派が多数派を占めた。同議会では、個々の能力の抜きんでているオルレアニストが再び主導権を握ることになったが、レジティミストたちも彼らに対抗する姿勢を見せた。オルレアニストの大統領アドルフ・ティエールは、自身の所属する王党派の望まない第三共和政を樹立した。オルレアニストはレジティミストと協力し、1873年5月24日にティエールから大統領職を奪った。 この後、オルレアニストは王政復古の大義のためにレジティミストとの合同を模索し始めた。かつてギゾーも1850年にまた両派の合同構想を抱いていたが、シャンボール伯爵アンリが「神意」による王権を求めて合同を否認するのは明らかであった。1873年に合同が成立した時には、重要な歩み寄りがあった。協議が行われた結果、オルレアン家の王位請求者であるパリ伯爵フィリップとシャンボール伯との対面がフロースドルフで実現した。パリ伯はこの訪問は一族の家長に対する表敬訪問であるだけでなく、「あちら方の主義主張を受け入れる」ことの表明である、と宣言した(ただし、オルレアニストは時にパリ伯による宣言は心裡留保を伴って行われたものである、と主張している)。しかし結局、最終的な合意が成立に至ることはなかった。 共和主義者は1876年の総選挙で勢力を盛り返し、1877年に5月16日危機が起きると同時に王党派による共和国支配は終焉を迎えた。1883年、シャンボール伯が没すると同時にブルボン王家の嫡系は絶え、パリ伯が合意によりその地位を引き継いだ。しかし、独立した政治党派としてのオルレアニストは消滅し、かつての支持者たちの多くが共和国の体制に順応していった。 一方で、1899年に創設された急進的な右翼組織「アクシオン・フランセーズ」は、共和国体制がやがて崩壊を迎えることは目に見えており、オルレアン家こそがフランスの民族統合を救う唯一の存在であるとして、支持基盤の崩壊した同家を支持した。こうしてオルレアニスムは新たな生命力を得たが、その主導権は真正の君主制支持者など眼中にない別の組織に渡ってしまった。本来のオルレアニストの持つ、正統王朝と共和主義者という両極端のあいだに存在する穏健派という性格は、失われてしまったのである。 歴史家ルネ・レーモンによれば、第五共和政において、オルレアニストの系譜を引く政治家には大統領ヴァレリー・ジスカール・デスタンがいる。
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第三共和政期
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「ジョルジュ・オスマン」の記事における「第三共和政期」の解説
1870年、オスマンは当時の内閣との対立から知事の職を退いた。同年末、ナポレオン3世はスダンの戦いでプロイセン軍に捕らえられ失脚し、フランス第三共和政へと移行した。フランス・プロイセン戦争(普仏戦争)敗勢による混乱の中、一時的にパリで労働者たちによる社会主義政権(パリ・コミューン)が成立したが、わずか2か月程度で軍事鎮圧された。この背景として、二月革命で反政府勢力を助けた路地裏がオスマンの都市改造によってなくなったため、コミューン側の兵士が市街戦においてバリケードを作れなかったことが指摘される(フランス第二帝政「都市計画」を参照のこと)。 県知事辞任後、一時ボルドーの近くへ移住した。その後、コルシカ島で一時公職につくが、晩年は回顧録の執筆に力をいれた。1891年1月、パリで死去。
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第三共和政期
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「代議院 (フランス)」の記事における「第三共和政期」の解説
第三共和政下の代議院は、多数代表制に従い任期4年で選出される議員で構成された(各立法期毎に520人ないし600人の議員が選出された)。17の立法期があり、共和国の議会政治の慣行はこの時期に定着していった。その議場はレオン・ガンベタ、ジュール・フェリー、ジョルジュ・クレマンソー、ジャン・ジョレスをはじめとして雄弁な政治家が激論を展開したことで知られた。フランスの議会制において政党や政治団体という概念は長らく存在しなかったが(政治団体が登場したのは20世紀初頭のことであった)、共和派の離合集散は多党分立や周期的な政情不安定を生み出す原因となった。 法律家は代議院議員の重要な一翼を担った。すなわち、1924年の左翼連合(英語版、フランス語版)結成時には、140人の弁護士と9人の法学教授が議席を占め、1936年議会(英語版、フランス語版)の人民戦線政権下では、110人の弁護士と8人の法学教授が議席を占めた。 第三共和政から、それまでのフランスの体制下には存在しなかった議員歳費が導入された。その理由は、貧しい者も含めすべての市民が議員に選出され得るようにしなければならない、言い換えれば、議会が名望家や不労所得者だけに席巻されることのないように議員に相当の歳費を与えることが必要である、と考えられたことにあった。1938年1月1日時点で、議員歳費額は年82,500フランであった。
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