第三共和政中期から後期(1883年 - 1940年)
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「レジティミスム」の記事における「第三共和政中期から後期(1883年 - 1940年)」の解説
ドレフュス事件が騒がれる中で1899年に結成された民族主義者の組織「アクシオン・フランセーズ」は、シャルル・モーラスの影響で君主主義に方針を転換させた。モーラスの単一民族主義と国王およびカトリック教会への帰依は実用的な観点から採用されたものだったが、少なくとも1926年に教皇ピウス11世から非難を受けるまでは、アクシオン・フランセーズはフランスの反動分子の間で人気を保ち続け、一部のレジティミストをも魅了したと思われる。モーラスは早くも1919年には女性参政権への支持を表明したが(フランスの女性参政権は1944年になってシャルル・ド・ゴールによって認められる)、これは1871年の総選挙で地方の人々が君主制支持者に投票したのと同様に、女性たちもより保守的な候補を支援するだろうと見込んだからであった。 第三共和政時代に「シニストラスム」の影響を受けた一部の保守派たちは、反革命や反共和主義と関連の深い「右翼」という言葉で自分たちを呼ぶようになった。シャンボール伯が死去して10年後の1893年、共和国体制に順応した一部のレジティミストたちは「立憲主義右派」 (Droite constitutionnelle) ないし「共和主義右派」 (Droite républicaine) と自称していた。しかし彼らは1899年にはその自称を変え、1902年には「アクシオン・リベラル」党として総選挙に打って出た。同党は一部の郷愁的なレジティミストを引きつけて、1910年から右翼を公然と名乗っていた唯一の政党であり、1924年以後「右翼」という言葉からは実質的に議会の右翼席という(非党派的な)意味が失われた。 この時期までに、大多数のレジティミストたちは田舎にある自分たちの持ち城に帰り、政治の舞台から身を引いた。アクシオン・フランセーズの運動は1930年代を通じて影響力を保ち続けていたが、同組織による王制復古の主張は、古いレジティミストたちのそれとは全く異なる動機に基づくものであり、モーラスがカトリック信仰を金のために利用しているのを見たレジティミストたちは、アクシオン・フランセーズと決別した。このため、レジティミストたちの政治活動は1920年代、1930年代を通じて低調であった。アクシオン・フランセーズとは関係しない極右活動家の組織した1934年2月6日暴動でも、組織者たちの反動的な信念は、ほとんど人々の共感を呼ばなかった。王党派の貴族たちは、大きな勢威をふるっていたナチズムやファシズムの影響を受けた新しい極右活動家と、自分たちは全く別の存在だと考えていた。ところが、レジティミストたちは1940年のナチス・ドイツによるフランス侵攻とそれに伴う第三共和政の崩壊を、「神の御業」と呼んで歓喜をもって迎えたという点ではモーラスと何ら変わるところはなかった。レジティミストの多くが、占領統治下のフランスに反動的な方針を課すことのできる思わぬ機会を得たと考え、フィリップ・ペタンを首班に据えたヴィシー政権に次々に参画した。
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