政教分離原則の広がり
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「政教分離原則の広がり」の解説
「政教分離原則」および「ライクリッキ」も参照 明治時代の日本にあっては、1872年の欧州視察団(団長は梅上沢融)に加わり、海外教状視察の任にあった浄土真宗の僧侶島地黙雷は、渡欧中のパリにおいて先に政府が提示していた国民教化原則に対して批判建白書を出し、帰国後は政教分離・信教の自由の主張のもと、政府が進めようとしていた神道国教化政策に抵抗して大教院分離運動を推進した。一方、1868年の五榜の掲示によって江戸幕府のキリシタン禁圧政策を踏襲していた新政府は、1871年に派遣された岩倉使節団による視察を兼ねた条約改正予備交渉において、欧米諸国の立場がキリスト教解禁を条約改正の条件とするものであることを知り、国内にあっては啓蒙家中村正直の1872年の建白などもあり、帰国後の1873年には従来の禁止令を廃止した。大教院は1875年に教部省によって解散されたが、黙雷は新政府が維新直後に掲げた神仏分離令を逆手にとり、神仏分離を推し進めるためには教部省そのものの廃止が必要であると訴え、1877年には教部省が廃止された。1889年に発布された欽定憲法や大日本帝国憲法においても、「信教の自由」が明記された。 20世紀に入り、上述のフランスの政教分離法(1905年)とそのライシテ原則は、国際社会に対しても広汎な影響を与えた。1910年10月5日革命によって王政が倒れたポルトガルでは、テオフィロ・ブラガによるポルトガル第一共和政が成立したが、ここではイエズス会などすべての修道会が廃止され、国内の教会財産は没収された。翌1911年には政教分離法を施行してローマ教皇庁と断交し、ブラジルとフランスの憲法を範とする1911年憲法を採択した。 1917年のロシア革命によって社会主義政権が成立し、ロシア内戦に勝利したソビエト社会主義共和国連邦でも政教分離原則が採用された。ただし、ここにおける政教分離は、宗教に対する敵対ないし非友好の関係に立つ分離であり、政治に対する宗教の発言や学童・生徒に対する宗教教育も禁じられた。このような姿勢は中華人民共和国など、のちに成立するほかの共産党政権でも維持・継承された。 ドイツでは、1918年にドイツ帝国が崩壊してヴァイマル共和政が成立し、1919年制定のヴァイマル憲法137条では「国の教会 (Stasstskirche) は存在しない」と規定され、宗教団体設立の自由と個人の宗教の自由も保障された。しかし、教会は引き続き「公法上の社団」とされ、教会税徴収権を有し(137条)、公立学校で宗教は正規科目とされた(149条)。この規程は1949年のドイツ基本法140条でも採用され、ドイツでは現在でも信教の自由が保障される一方、宗教団体には社団の地位が与えられ、徴税権も認められている。このように、ひと口に政教分離といっても、そのあり方は国によってさまざまである。 ライシテの原則は、1922年のトルコ革命にも影響をあたえた。その過程で生まれたのが「ライクリッキ(laiklik)」と呼ばれるトルコ共和国(1923年10月29日建国)独自の政教分離原則である。建国の父、ムスタファ・ケマル・アタテュルクはこの原則をフランスのライシテ原則を参考にして形成し、1937年にはこの原則を含む一連の「ケマル主義」を確立させた。ライクリッキ原則は、現行の第三共和政憲法である1982年憲法においても継承されており、そこでは、宗教的自由(第24条第1項)、国家の非宗教性(第24条第4項および第5項)が定められている。 第二次世界大戦後、日本では政教分離について厳格な規定をもつ日本国憲法が施行された。この憲法はアメリカ合衆国憲法の影響を受け、それに類似しつつもいっそう厳格に国家と宗教の関係を規律している。欧米諸国から独立したアジア・アフリカ諸国でもまた、政教分離規定や制度に関しては旧宗主国のそれを引き継いだ国が多い。とくにマリ共和国やセネガルなどのフランス語圏では住民の多くがムスリムであるが、その憲法では明確に政教分離原則が規定されている。一方、キリスト教やイスラームのなかでは原理主義的な動きもまた顕著となっており、1979年にはルーホッラー・ホメイニー師を宗教指導者とするイラン革命が起こった。世俗と宗教の戦いは今も続いているのである。
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