ニューイングランドの諸植民地とは? わかりやすく解説

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ニューイングランドの諸植民地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ニューイングランドの諸植民地」の解説

ニューイングランド」、「ロードアイランド植民地」、および「コネチカット植民地」も参照 ジェームズタウン南部ヴァージニア創設された頃、ロンドン近郊寒村から新王ジェームズ宗教政策失望した少数清教徒低地地方移住したがそこも安住土地ではなく1620年にはメイフラワー号乗って新大陸旅立ったヴァージニアのはるか北方プリマス植民地築いた清教徒たちは信教の自由求めて移住繰り返したことから、自らを巡礼者なぞらえた。これがいわゆるピルグリム・ファーザーズ巡礼父祖)」であるが、実際にはこの集団(約100名)に女性含まれていた点がそれまでとは違っていた。家族単位移住入植、この集団歴史的な新しさは、むしろそこにあったのであるニューイングランドにおいて、プリマスよりもはるかに規模大きく、やがてそれを吸収合併することになるのがマサチューセッツ湾植民地である。1630年カンタベリー大主教ウィリアム・ロードによって清教徒迫害が始まると、ここには建設最初の年に1千人以上、以後10年あまりで約2万人移住者入植した。ここでも移住者4分の1女性であったマサチューセッツ植民地中心となったのは、清教徒たちのなかでもイングランド国教会から分離せずキリスト教信仰模範となるべく行動した非分離派」であり、その指導者本国治安判事経験をもつジョン・ウィンスロップであったウィンスロップ1630年航海に際して語った説教キリスト教慈愛ひな形』は、アメリカ史アメリカ文学古典中の古典として知られ、そこには神の選民の砦を指す「丘の上の町」という聖書的な暗喩用いた強い使命感述べられている。この使命感には現代アメリカ国家自己理解通じるものがあるうえ、その理念先行型の国柄一端示している。 しかし、マサチューセッツ非分離派は回心経験有する信徒連帯重んじて会衆派教会をつくり、自由民資格もその教会員限って宗教上の目的有する寛容的な神政政治おこなった。これに対し分離派属すバプテスト教会牧師1631年ケンブリッジから移住したロジャー・ウィリアムズは、イギリス国教会から分離しようとしない会衆派批判して宗教的寛容思想説いた詳細後述)うえ、植民地政庁先住民ネイティブ・アメリカン)から土地購入していないことにも疑義呈し土地譲渡権国王ではなく先住民にあると主張した一方1634年移住したバプテストでジョン・コットン(英語版)を師と仰ぐアン・ハッチンソンは、反律法主義掲げてカルヴァン予定説極限まで徹底させ、会衆派教義挑戦した(アンティノミアン論争)。1637年植民地指導者ハッチンソン夫人総会召還し審問し、ウィンスロップ総督は彼女に植民地からの追放処分下したまた、ウィリアムズハッチンソン女史以上にマサチューセッツでさらに厳し弾圧受けたのがクエーカーフレンド派)の人々であり、1650年代後半から1660年代初頭にかけては4名のクエーカー教徒絞首刑処せられた。 ロジャー・ウィリアムズは、1636年マサチューセッツ湾植民地から宗教的迫害受けて逃げてきた仲間たちとともに政教分離原則にもとづくロードアイランド植民地設立しその本拠地を「プロビデンス神の摂理)」と名づけた。そこは先住民ナラガンセット族首長カノニカスから贈与され土地であり、ここでウィリアムズユダヤ教徒対象含めた信教の自由実現すべく1644年本国政府から特許状取得し北米植民地においてはじめて信仰の自由政教分離保障する自治領植民地建設した。そこでは、「公共事項」における多数決原則と「良心の自由」を定めた憲法制定されたほか、聖職者対す公的資金援助することなく教会国家分離された。一方アン・ハッチンソン先住民よりアクィドネック島ロード島)を購入し、夫のウィリアム・ハッチンソン、仲間のウィリアム・コディントン(英語版)、ジョン・クラーク英語版)らとともに現在のロードアイランド州ポーツマス入植した1636年建設されコネチカット植民地では、政教分離主張してボストン長老衝突して追放され清教徒牧師トマス・フッカー(英語版)がハートフォードの町を建設したコネチカットでは1639年フッカー思想反映し、被統治者同意原則とする民主的な基本法定められた。なお、コネチカット植民地イングランド王政復古後の1662年国王チャールズ2世から特許状与えられニューヘイブン植民地併合して自治領植民地として発展したニューイングランド清教徒植民地では、各タウン英語版)の中心部にミィーティングハウス(集会所)が設けられ安息日ごとに集まって礼拝一般的であり、これを「タウンミーティング」と称したが、そこでは典礼重視するカトリック国教会とは対照的に説教きわめて重視された。カルヴァン派では説教によって聴衆を「真の宗教」へ導くことが目標とされたからであり、このことは植民地文化形成にも大きく作用した上述ウィンスロップやジョン・コットンは、優れた説教語り手として知られている。しかし、タウン・システムの閉鎖性上述たように宗教上・政治上の意見の対立追放という形式での隔離によって正面衝突回避する一方急速に流入した多数移住者周辺未定住地に集団的に押し流すものであり、他方では1637年ピクォート戦争において先住民ピクォート族が「サタンの手先」として「掃討」されたようにある種暴力性をはらむものでもあった。 自らの信仰にとって理想の地を求めて移住した清教徒たちが他の教派に対しては非寛容共同体建設することも、少なくなかった。タウン・システムが直接民主制であったことは事実であるが、それは権利というよりも義務的要素の強いものであったニューイングランドでは1689年以前にも103人もの女性(主に中年)が「魔女」として処刑されているが、1692年の「セイラム魔女裁判」はこのような寛容性を示す典型例である。当時マサチューセッツ州セイラム現在のダンバース)は厳し禁欲を強いる清教徒社会であり、そこでは1692年3月以降裁判継続的に開かれては200名近い住民魔女として告発され数人男性を含む20前後処刑、1名が拷問中に圧死、5名が獄死している。この魔女狩りはちょうマサチューセッツ湾植民地王領化の時期重なっており、それにともなう住民の不安と共鳴する現象であったとも指摘されている。

※この「ニューイングランドの諸植民地」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「ニューイングランドの諸植民地」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。

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