援助令状
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 03:07 UTC 版)
「ジェイムズ・オーティス」の記事における「援助令状」の解説
このころマサチューセッツの税務局職員は、1750年代にマサチューセッツ最高裁判所が発給した援助令状を元に一般市民に対して捜査への「援助」を強要することができた。これらの援助令状は、発給に当たって捜査の対象や目的、その期間を特定する必要がない一般令状であったため、マサチューセッツの家財は常に強制的な捜査と押収の対象となりうる状態だった。 援助令状には「国王の死後6ヶ月」という有効期限があった。ジョージ2世が1760年10月に崩御したため、既存の令状は1761年4月に失効することになった。当局は援助令状を新王ジョージ3世の名の下に再発給することを要請したが、これに対し、ボストンの商人たちが公聴会の実施を求めた。 人の家は城塞である。家は、人に安らぎを与え、城塞の城主に対するがごとく、人を護るものである。しかるにこの令状が、もし合法と定められるのであれば、この城主の特権は徹底的に踏みにじられるだろう。官吏は、自分の望むときに我々の家に足を踏み入れてよいということになる。 1761年2月のオーティスによる弁論から抜粋 この時期海事法務官を代行していたオーティスは当局側の弁護を要請されたがこれを拒否して離職、反対に、学友オクセンブリッジ・サッチャーと共に、貿易商たちの弁護を公益のための無償奉仕という形で買って出た。1761年2月、マサチューセッツ議会議事堂で開かれた公開討論では、司法長官として当局の弁護に立った旧師グリッドリーを向こうに援助令状に反対する主張を5時間に渡って論じた。 結局、オーティスらの主張は新主席判事ハッチンソンによって退けられたが、オーティスの弁論はジョン・アダムズを始めとする愛国派の人々に感銘を与え、結果としてアメリカ独立革命に一定の貢献を果たした。アダムズは後にこう回想している。「オーティスは大火の種火だった。……幼き独立の気運はあの時あの場所で生まれたのである」 この弁論によって一躍その名を知られるようになったオーティスは、同年5月、マサチューセッツ代表議会ボストン代表議員の一人に選出された。以後、1769年まで続けて議会に席を占めることになる。
※この「援助令状」の解説は、「ジェイムズ・オーティス」の解説の一部です。
「援助令状」を含む「ジェイムズ・オーティス」の記事については、「ジェイムズ・オーティス」の概要を参照ください。
援助令状
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:29 UTC 版)
「トマス・ハッチンソン」の記事における「援助令状」の解説
バーナードが初期に取った行動の1つはジェイムズ・オーティス・シニアの代わりにハッチンソンをマサチューセッツ最高司法裁判所の長官に指名したことだった。この異動はオーティスやその子ジェイムズ・ジュニアなど植民地の人民主義者を、ハッチンソンやバーナードに対抗する者にさせ、ハッチンソンの評判に長く影響することになった。ハッチンソンは法学の訓練を受けておらず、その地位を求めていなかった。当時法曹界での思慮あるもの、特にジョン・アダムズという駆け出しの弁護士も大いに怒ることになった。 1761年、ハッチンソンは援助令状を発行して抗議と批判の嵐を招くことになった。この令状は税関役人による無作為調査を基本的に認めるものだった。それ以前に幾つかの令状が発行されたが(皮肉にもハッチンソンは反対していた)、このときはイギリス国王ジョージ3世が即位したことで、必要になった既存令状を更新することを承認したものだった。アダムズやオーティスは、ハッチンソンの権力独占に対して(副総督かつ評議員という立場だった)、また最高裁判所長官という地位について法的資格を欠くことに対して、問題を取り上げた。
※この「援助令状」の解説は、「トマス・ハッチンソン」の解説の一部です。
「援助令状」を含む「トマス・ハッチンソン」の記事については、「トマス・ハッチンソン」の概要を参照ください。
- 援助令状のページへのリンク