イギリス臣民の自由と権利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 03:07 UTC 版)
「ジェイムズ・オーティス」の記事における「イギリス臣民の自由と権利」の解説
自然状態にある人間となれば、何人といえども、私の同意なくして私から財産を取り上げることはできない。もし同意なく私の財産を取り上げるならば、その者は私の自由を侵害し、私を奴隷とする者である。このような行為が自然の法理に逆らうとするとき、社会の法理がこれを正義とすることはありえない。――問題の課税行為は、代表を選出していない人々に対して実施されるものであり、人々の基本的権利の一つである自由人たる権利を侵すものと思われ、このまま事が進めば市民権のことごとくを全面停止せしめることになると思われる。同意なく財産をほしいままにされるという中で、市民権のどこに価値が残ろうか? 『イギリス植民地の権利の主張と証明』(1764年)から抜粋 オーティスは弁論のみならずパンフレットの公刊によっても論説を行った。オーティスの主張はジョン・ロックの影響下にあり、これらのパンフレットにもしばしば引用されている。1762年の『マサチューセッツ湾代表議会による措置の擁護』は、オーティスがはじめて発表した政治論に関する出版物である。公費を巡る総督と議会の対立を陳述し、そこを足がかりに、課税は人民の同意を代行する代表議会によってなされるべきであるという議論を展開した。 一方、財政難に苦しむイギリス本国は、その活路を植民地への課税に見出した。1764年、本国議会の決により、植民地からの徴税による増収を謳った砂糖法が成立した。 同年9月、オーティスは『イギリス植民地の権利の主張と証明』と題するパンフレットを発表する。ここでオーティスは、諸権利は天賦自然のものであり、行政府は社会全体の福利を推進することを旨とした社会全体との契約によって成り立つというロックの説をなぞり、代表なき課税は契約関係のない行政府がイギリス臣民の市民権を侵害するものと批判した。植民地の政治的権利を理論的に示したこのパンフレットは、それまでに植民地で配布された経済的弊害を説くことに主眼を置いたパンフレット群とは一線を画し、独立革命運動にきわめて大きな影響を与えた。 しかし本国議会は、さらに1765年、植民地で発行されるさまざまな書類や出版物に本国が発行する収入印紙を貼付することを義務付ける印紙法を制定した。これは、植民地内部での取引に対する直接的な課税を意味していた。オーティスやサミュエル・アダムズは、各植民地から代表者を集めて対策会議を開くことを企画し、1765年10月の印紙法会議を実現した。オーティス自身もマサチューセッツ代表の筆頭として出席した。そして、翌年には印紙法を撤廃させることに成功する。 1766年5月、マサチューセッツ代表議会の議長に指名されるが、総督バーナードが任命を拒否したため立候補を取り下げ、結果、トマス・クッシングが議長に任命されることになった。このとき議会が指名した総督会議議員の面々も任命を拒否されている。その中には父ジェイムズも含まれていた。 同年9月、ボストンの商人ダニエル・マルコムは、援助令状に基づく家屋の立ち入り捜査に対し、援助令状によって錠前の破壊を命じることはできないと主張して施錠された区画の捜査に実力で抵抗した。当時から、この事件の裏には助言者としてオーティスの存在があると考えられていた。 1767年、本国議会では植民地に新たな税負担を求めるタウンゼンド関税法が成立。12月にペンシルベニア植民地のジョン・ディキンソンから『ペンシルベニアの一農夫からの手紙』の原稿を受け取ったオーティスは、すぐに発表するように助言した。同月開かれたマサチューセッツ議会はサミュエル・アダムズが起草したマサチューセッツ回状を採択し、各植民地に対し、国王ジョージ3世に請願書を送るよう協力を要請した。
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