イギリス統治下とインド併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:21 UTC 版)
「トラヴァンコール王国」の記事における「イギリス統治下とインド併合」の解説
イギリスの保護下において、トラヴァンコール王国は藩王国として存続を許された。だが、藩王バララーマ・ヴァルマ1世(在位1798 - 1810)の治世には、1805年にふたたび軍事保護条約が結ばれ、イギリス東インド会社の軍の駐留費の支払も増額させられた。 1807年12月にイギリスは、トラヴァンコールに滞納分の駐留費を支払うように求めたものの、トラヴァンコール側が拒否したため、これに連動して反乱が起きた。だが、1808年1月に反乱軍が敗れ、藩王国も鎮圧に協力させられ、反乱は沈静化していった(トラヴァンコール戦争)。 トラヴァンコール藩王国の国内では、平均識字率や社会発展の面において、イギリス領インドより進んでおり、かなり近代的かつ能率の高い行政を行っていたことで知られ、すでに1834年には、インド最初の英語学校がおかれ、この学校は1964年までは学費の負担がなかった。 だが、1924年から1925年、女藩王セートゥ・ラクシュミー・バイイ(在位1924 - 1931)のとき、ケーララのインド国民会議派により、ヴァイカムの寺院を囲む公道を不可触民に開放する非暴力運動(ヴァイカム・サティヤーグラハ)が起き、ガンディーの調停で、トラヴァンコール藩王国の政府は、一部を除き寺院につながる道を不可触賤民に開放するなど、身分差別や宗教的には問題があった。 最後の藩王バララーマ・ヴァルマ2世(在位1931 - 1947)は、1947年6月3日にインドとパキスタンが分離独立すると発表されたとき、インドとパキスタンのどちらにも属さず、トラヴァンコール藩王国が独立した国家となることを望んだが、結局インドに帰属を決めた。 同年8月15日、インド・パキスタン分離独立が行われると、トラヴァンコール藩王国はインドに併合されることとなり、のちにコーチン藩王国の領土と合わせて、ケーララ州となった。
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