イギリス第8軍のガザラ・ラインからの撤退
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「ガザラの戦い」の記事における「イギリス第8軍のガザラ・ラインからの撤退」の解説
6月14日、オーキンレックはリッチーのガザラ・ラインからの撤退を承認した。エル・アデムとそれに隣接した2箇所のボックス陣地の守備隊が固く守っていたため、南アフリカ第1歩兵師団は海岸沿いのバルビア街道をほぼ無傷で撤退できた。しかし、バルビア街道は2個師団が通過するということができなかったため、第50(ノーサンブリア)歩兵師団所属の2個旅団は別の道を探さなければならなかった。この2個旅団は、枢軸国軍装甲部隊のために、直接東へ向かって退却するわけにはいかなかった。その代わりに、南西方向のイタリア第10軍団、ブレシア及びパヴィア両師団のラインに向かい突破を図って攻撃を行い、さらに南へ向かって砂漠地帯へ出て方向を東に変え、イギリス軍の支配する地域(マッダレーナ)へ逃れた。 オーキンレックは、ロンドンが強固な防衛点であるエジプト- リビア国境周辺地区へのイギリス軍の撤退を望んでいないとはっきり分かっていた。このため、6月14日にリッチーに対しオーキンレックはアクロマ(Acroma : トブルクの西)から 南東へエル・アデムを通り、ビル・エル・グビまでの線を維持するよう命令した。しかし、6月15日の夕方には650高地の防衛拠点は攻撃を受け、6月16日には187高地の守備隊は物資補給ができなくなり撤退せざるを得なくなった。その日、一日中エル・アデム及びシディ・レゼーグのボックス陣地守備隊は、ドイツアフリカ軍団の強い圧力を受け続けた。6月17日ついに両陣地の守備隊が撤退し、これによりトブルクの包囲を防ぐ機会は失われてしまった。リッチーはイギリス第8軍に対し前線の約 100 mi (160 km) 東メルサ・マトルー (Mersa Matruh) の防衛拠点に撤退するよう命令し、トブルクの残置部隊には敵の攻撃を持ちこたえて、1941年の時のように枢軸国軍の連絡を妨害するよう命令した。
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