イギリス統治下のガーイクワード家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 14:27 UTC 版)
「ガーイクワード家」の記事における「イギリス統治下のガーイクワード家」の解説
第三次マラーター戦争終結後の翌年10月、アーナンド・ラーオは死亡し、その弟のサヤージー・ラーオ・ガーイクワード2世が藩王位を継承した。1847年12月、サヤージー・ラーオが死亡したのち、三人の息子ガナパト・ラーオ・ガーイクワード、カンデー・ラーオ・ガーイクワード、マルハール・ラーオ・ガーイクワードが藩王位を継承した。だが、1875年1月にマルハール・ラーオはイギリスの駐在官を毒殺しようとし、4月にその疑いにより廃位され、マドラスへと追放された。 同年、マルハール・ラーオの廃位を受けて、カンデー・ラーオの妃は一族から養子をとって藩王とした。これがヴァドーダラーの名君として名高いサヤージー・ラーオ・ガーイクワード3世である。 サヤージー・ラーオは開明的かつ近代的な思考の持ち主であり、不可触民制の問題に疑問を持ち、そのためにダリットのビーム・ラーオ・アンベードカルを雇用するなどした。彼と同様な思考の持ち主としては、マイソール藩王国の藩王クリシュナ・ラージャ4世が挙げられる。彼ら2人はほぼ同時期にそれぞれの藩王国を統治していた。 1947年8月15日、サヤージー・ラーオの孫プラタープ・シング・ラーオ・ガーイクワードの治世、インド・パキスタン分離独立により、ヴァドーダラー藩王国はインドへと併合された。
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