イギリス統治後の独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 02:49 UTC 版)
「西パキスタン」の記事における「イギリス統治後の独立」の解説
1947年の建国(英語版)にあたってパキスタンの建国の父は、境界線委員会(英語版)会議に参加した。シリル・ラドクリフ(英語版)に率いられて、委員会はパキスタンとインドの協定や分割、将来の政治機構を交渉する任務に当たった。 パキスタンは1,600キロメートル (1,000マイル)に亘るインドで分断された二つの別個の州から成り立った。西側の州は、3つの知事州(カイバル・パクトゥンクワ州、西パンジャーブ州(英語版)、シンド州(英語版))と長官が管理する州1州(バルチスタン州(英語版))、バルチスタン州連合(英語版)、数個の独立した藩王国(有名なところではバハワルプール(英語版)、チトラル、ディル(英語版)、フンザ(英語版)、カイプール(英語版)、スワット(英語版))、(カラチ周辺の)連邦首都領域、連邦直轄部族地域を含んでいた。新国家の東側(東パキスタン)は、(シレット管区の嘗てのアッサム州とチッタゴン丘陵地帯を含む)東ベンガル州のみを構成した。 西パキスタンには民族間の摩擦や知識不足、永続的な国境を定めるに当たっての不確実性などの分割に関する問題があった。東パキスタンやバロチスタン、西北辺境州(英語版)には殆ど困難な問題はなかったが、パキスタン側の南パンジャーブでは安定させなければならない重要な問題に直面していた。嘗ての東パンジャーブ州(英語版)はインド政府により統合され、数百万のパンジャーブのムスリムは、逃げだし、逆にシク教徒やヒンドゥー教徒に置き換わった。地域の暴力は、インド亜大陸中に拡大した。パキスタンの建国の父の関心を必要とする経済復興活動は、更に問題を増大させた。 この分割は大規模な共有者としてのインドと共に天然資源や産業、経済インフラ、人事、軍隊も分割した。インドは人口でパキスタンの3500万人(9%)に対して3億4500万人(91%)を保持した。国土はインドに78%、パキスタンに22%分割された。軍隊はインドに64%、パキスタンに36%の割合で分割された。(武器兵站や基地のような)殆どの軍事資産はインドにあり、パキスタンの施設は、殆ど時代遅れで、保持する弾薬は、僅か一週間ほどの危険なまでに低いものであった。1個師団が東パキスタンで召集された一方で4個師団が西パキスタンで召集された。
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