初期の経歴と軍務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:26 UTC 版)
「ウィリアム・テイラー」の記事における「初期の経歴と軍務」の解説
ウィリアム・テイラーは1675年/6年2月25日、マサチューセッツ湾植民地 ドーチェスター(現在のボストン市内)で生まれた。父は同名のウィリアム・テイラー、母はレベッカ・ストートンだった。母はマサチューセッツ植民地初期開拓者イスラエル・ストートンの娘であり、判事ウィリアム・ストートンの姉妹だった。父は裕福な土地所有者であり商人だった。父はボストン市で商業用不動産を所有しており、ニューイングランドで最大級に強力で、連関性が良い土地開発社共同事業であるアサートン・カンパニーの一員だった。隣接するフランス領アカディアとの「東方貿易」に携わる商人の「選別友愛会」の一員でもあった。その友愛会の指導的会員の1人がボストンの商人ジョン・ネルソンだった。テイラーの父は1682年に自殺した。明らかに財政的逆境によってもたらされたうつ病を患っていた。 テイラーはかなりの資産を相続した。1695年時点でテイラーの後見人が彼のために5つの工場を運営していたと報告されている。また独身のまま子供がなく死んだ叔父の大きな資産も相続していた。1702年までに、別の植民地指導的判事であるナサニエル・バイフィールドの娘、サラ・バイフィールドと結婚した。サラは1708年頃に子供ができないまま死んだ。バイフィールドとテイラーの父は事業上の共同経営者であり、テイラーはその関係を続けた。 テイラーはアン女王戦争のときに植民地民兵隊に従軍した。1710年、民兵1個連隊を指揮し、アカディアのポートロイヤルを占領する戦いに参戦した。その勝利の後で、遠征隊の指揮官フランシス・ニコルソンと共にロンドンに行き、「将来有望」となった。その成果はマサチューセッツ湾直轄植民地副総督への任官となり、ジョセフ・ダドリー総督の下に仕えた。それからマサチューセッツに戻り、再度植民地防衛のために活動し、ニューハンプシャーのウィリアム・アンド・メアリー砦で駐屯し、また現在のメイン州南部(当時はマサチューセッツの一部)のフロンティア防衛にも携わった。 1711年初期、ジョセフ・ダドリーの孫トマスの未亡人だったアビゲイル・ジラム・ダドリーと再婚した。この夫婦には6人の子供が生まれ、ドーチェスターのストートン家産で育てた。1712年にはエンシャント・アンド・オナラブル砲兵中隊に加わり、同年にその隊長に選出された。
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