初期の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 18:15 UTC 版)
下津井は古くから風待港として栄えた港町である。下津井 - 丸亀間航路は航路が短いことから本州と四国とを結ぶ「四国往来」と呼ばれる主要ルートの一部とされ、金比羅参りの人々などが古くから多く利用していた。 しかし、1910年に国鉄宇野線が全通し、これに接続する形で宇野 - 高松間で宇高連絡船の運航が開始されると、下津井 - 丸亀間航路の利用者は激減した。そこで四国渡航客を取り戻すために、下津井から国鉄線までの鉄道路線が計画された。 会社設立に当たっては、当時塩田王として知られた野﨑家や、回船業や醸造業を営んでいた永山家をはじめとする児島・下津井の有力者らや、下津井の対岸にあたり、下津井 - 丸亀航路の盛衰が直接街の経済に影響を及ぼすことになる丸亀の有力者らの出資や用地提供を受け、1910年に下津井軽便鉄道期成同盟会を結成して、岡山県児島郡下津井より岡山県都窪郡茶屋町に至る軽便鉄道の旅客・貨物営業許可申請を行い、免許を取得した。 これにより、1911年に下津井軽便鉄道会社を設立、全線の建設工事を着工した。 もっとも、終端に当たる琴海 - 鷲羽山付近に大規模な岩盤開削工事が含まれ、その完成までには時間を要したため、児島郡最大の都邑であり、しかも下津井軽便鉄道にとって大口の路線用地提供者であった野﨑家が本拠を構える児島までの早期開業が要請された。これに応じて味野町(後の児島) - 茶屋町間14.5kmが1913年に先行開業し、翌1914年に下津井 - 味野町間6.5kmが開業して茶屋町 - 下津井間21.0kmが全通している。 この下津井軽便鉄道線には、山陽本線の支線である宇野線から、さらに茶屋町駅で乗り換えねばならないという立地条件の不便さがあった。このため本来の目的であった四国連絡の利用者は少なく、当初は経営難が続いた。その打開策として、山陽本線との直結を企図した倉敷への路線延長や国鉄線との直通を可能とする1,067mm軌間への改軌も幾度か検討されたが、部分開業の原因ともなった児島半島の縦断に起因する狭隘かつ急峻な地形と、これに伴う巨額の建設工事費を捻出できなかったことから、いずれの計画も断念している。 その一方で大正末期より沿線、特に児島周辺で繊維産業が発達し客貨共に輸送量が増大し始めた。そのため、客貨分離とフリークエントサービスの充実を目論んで気動車(ガソリンカー)を導入、輸送力を大幅に増強した。戦前に導入したガソリンカーは単端式・ボギー車を合わせてのべ14両に達し、戦前の短距離軽便鉄道としては異例の大量導入であった。
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