初期の経歴と背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 10:03 UTC 版)
「スライマーン (ウマイヤ朝)」の記事における「初期の経歴と背景」の解説
スライマーンは恐らく675年前後にマディーナで生まれた。しかし、中世の史料における誕生から最初の30年間の経歴に関する記録は詳細に乏しい。父親のアブドゥルマリク・ブン・マルワーンはクライシュ族のウマイヤ家に属していた。一方で母親のワッラーダ・ビント・アル=アッバース・ブン・アル=ジャズはアラブ部族のアブス族(英語版)の出身で、6世紀の著名なアブス族の族長であるズハイル・ブン・ジャズィーマ(英語版)の曾孫であった。スライマーンは一時期砂漠においてアブス族の近親者の手によって育てられていた。 スライマーンが生まれた当時、イスラーム国家はスライマーンの遠縁にあたるムアーウィヤ1世が統治しており、ムアーウィヤ1世は661年にウマイヤ朝を成立させていた。683年と684年にムアーウィヤ1世の後継者であるヤズィード1世とムアーウィヤ2世が相次いで死去するとウマイヤ朝の権威はイスラーム国家の全域で崩壊し、ほとんどの地方はメッカを拠点とするウマイヤ家の出身ではないアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルをカリフとして承認した。その結果としてスライマーンを含むマディーナのウマイヤ家の人々は町から追放され、シリアへ亡命した。そしてシリアにおいてウマイヤ朝を支持する複数のアラブ部族から支援を受けた。これらのアラブ部族はスライマーンの祖父にあたるマルワーン1世をカリフに選出して部族連合のヤマン族(英語版)を形成した。そしてアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルを支持し、シリア北部とジャズィーラ(メソポタミア北部)を支配していた同様の部族連合であるカイス族(英語版)に対抗した。マルワーン1世は685年までにウマイヤ朝によるシリア一帯とエジプトの支配を回復させた。その後はマルワーン1世の後を継いだ父親のアブドゥルマリクが692年までにイスラーム国家の残りの地域を再征服した。
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