初期の経歴と教育履歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 02:34 UTC 版)
「クラレンス・ハウ」の記事における「初期の経歴と教育履歴」の解説
クラレンス・ディケーター・ハウは1886年1月15日に、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ウォルサムで生まれ育った。ハウ家は土地で認められた家であり、父のウィリアム・ハウは地元の政治に関わっていた。政治的なことをしていないときは、大工であり、家屋を造っていた。クラレンスの母はメアリー・エマ(旧姓ヘイスティングス)であり、教師であり、景気の良い農園主の娘だった。その農園でクラレンスは子供時代の夏を過ごした。 クラレンスの学校の成績は良かった。1903年にウォルサム高校を卒業するときにマサチューセッツ工科大学の入学試験を受け、これに合格すると、基本コースを受講した後に、技師として専攻コースに進んだ。夏の間に、ボストン地下鉄の多くを建設したJ・B・ウースター & Co. で働いた。学生時代に、ジョージ・スウェイン教授のお気に入りとなった。1907年に卒業した後、スウェインがハウに助手の職を提供した。ハウはこれを受け入れたが、若い技師としてボストン地域を離れて経歴を積むべきとも考えていた。それから間もなく、ノバスコシア州ハリファックスにあるダルハウジー大学から工学教授となる機会を提案された。スウェインはハウと仲間の技師ジェイムズ・バーカーとの間で、コイントスでその職を誰が受けるかを決めさせたという話が残っている。バーカーはその後半生でその話を否定し、その地位には興味が無く、ハウが異常なくらい幸運だと喜んでいたので、バーカーとギャンブルするほど愚かだったとは思えないと言っていた。いずれにしても、ハウは将来の見通しが良くなってきた。1907年恐慌がおきていたので、旧友には職の無い者が多かった。 当時、ダルハウジー大学は小さな大学であり、学生数は400人ほど、教授陣は大変負担が重かった。この時23歳のハウはその学生と大して年齢が変わらなかった。その分野では経験が少なく、ハリファックスから外に出たときは、学生と共に問題を解くこともあった。ハウの見解では、どんな問題でも常識と懸命さで解決できるというものだった。ハウは学生を田園部に連れて行き、キャンプを行い、想像上の鉄道の測量を行い計画を作った。学生の1人、デニス・ステアズは後にモントリオール・エンジニアリング・カンパニーを率いて行くことになる者であり、キャンプが終わる時までに学生たちはハウを大いに尊敬するようになっていたと語っていた。学生のC・J・マッケンジーは、ハウが後にカナダ政府の全国研究委員会の委員長に指名した者であるが、ハウは明晰な講師ではなかったが、そのプレゼンテーションが常に大変はっきりしたものだっと言っていた。ハウは後に大学の教育について、「大学で働く者は働き続け、成功する技師になる。怠ける者は怠け続け、何も得られない」と述べていた。さらに自身の仕事に加えて、ハリファックスでの社交生活においても行動的な時間を見い出し、学生の1人の姉妹との結婚も考えていたが、彼女は別の男性を思っていた。 ハリファックスでの1年後、植民地のダルハウジー大学や他の大学の上級生に対する工学の授業は、別の工業系大学で行われることとなり、ハウはそちらには役割を持たなかった。ハウは後に、ダルハウジー大学が好きであり、この変更が無ければ教授としてそこに留まっていたであろうと語っていた。しかし1913年、ダルハウジー大学での元の仲間であり穀物委員会の議長に指名されたばかりのロバート・マジルが、穀物エレベーターの建設を監督する責任のある技師長の職をハウに提案した。ハウは「それまでそのような物を見たこともなかったが、その職に就くことにした」と語った。同年、カナダ人となることで、ハウはイギリス臣民となった。
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