初期の経歴と教育
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「ジョン・モスビー」の記事における「初期の経歴と教育」の解説
モスビーはバージニア州ポウハタン郡で、バージニー・マクローリンとアルフレッド・ダニエルのモスビー夫妻の息子として生まれた。父のアルフレッドはハンプデン・シドニー大学の卒業生であり、1600年にイングランドで生まれ、17世紀初期にバージニア州チャールズシティに入植したリチャード・モスビーを先祖に持つ、イギリス起源のバージニア州名家の生まれだった。モスビーは父方の祖父ジョン・シングルトンに因んで名付けられた。 モスビーはマレルズ・ショップと呼ばれる学校で最初の教育を受けた。家族が1840年頃にバージニア州アルベマール郡(シャーロッツビル近く)に転居した時、フライズ・ウッドの学校に通い、その後10歳でシャーロッツビルの学校に転校した。体が小さく虚弱だったために、学校に通っている間はいじめの対象になった。モスビーは引っ込み思案になったり自信喪失になる代わりに却って向かっていく方であったが、その自叙伝に拠れば戦っても一度も勝てなかったという。唯一負けなかった喧嘩は、大人に割って入られた時だった。その喧嘩相手とは友達になり、その後も友情が続いた。 1849年、モスビーはバージニア大学に入学し、古典教養を選択し、ワシントン文学協会および討論組合に入会した。好きなラテン語・ギリシャ語および文学の成績は平均をかなり超えたが、数学が問題だった。3年次の時にモスビーと悪名高い威張りやジョージ・R・ターピンとの間に喧嘩が持ち上がった。モスビーはターピンが友人に向かって自分を侮辱したと聞きつけ、釈明を求める手紙をターピンに送った(これは当時南部の紳士が守る社交儀礼に添ったものだった)。ターピンは激怒し、次に出会ったときに「生で食ってやる!」と宣言した。モスビーは逃げ出すのは不名誉と考え、危険な事だったがターピンと対決しなければならないと決心した。 3月29日にこの二人は会した。モスビーはターピンに攻撃を止めさせることを期待して小さな「ペパーボックス」拳銃を携行していた。二人が向き合ったとき、モスビーが「貴方は宣言していたと聞いている...」と言うと、ターピンは頭を下げて突進してきたので、モスビーは拳銃を取り出して相手の首を撃った。彼は逮捕され2つの罪状(違法な発砲(最大量刑1年間の禁固と科料500ドルの軽罪)、悪意有る発砲(最大量刑10年間の懲役の重罪))で告訴された。ほとんど評決不能陪審となった裁判によって、モスビーは違法な発砲の罪で有罪とされ、シャーロッツビル監獄での1年間の禁固と科料500ドルを言い渡された。モスビーは後に裁判に掛けられる前に大学から放校されていたことが分かった。 モスビーは刑に服する間、その告発者であるウィリアム・J・ロバートソン検事との友情ができた。モスビーが法律を学びたいという希望を表明すると、ロバートソンはその法学蔵書の利用を認めてくれた。モスビーはその刑期の残りを使って法律を学んだ。判決が降りた直後から12人いた陪審員のうち9人がモスビーの恩赦の請願を始めた。この請願と大学の友人達からの請願に加えて、モスビーの両親から彼の虚弱な体質から考えて12ヶ月の禁固はその生命を危険に曝すという数人の医者からの宣誓陳述書を提出された。モスビーは寒くなると病気がちになり、小さくて不健康な監獄に苦しんだ。1853年12月23日、州知事はモスビーに恩赦を下し、1854年初めにはその科料も撤回された。
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初期の経歴と教育
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「ジョージ・ブリッグス」の記事における「初期の経歴と教育」の解説
ジョージ・ニクソン・ブリッグスは1796年4月12日にマサチューセッツ州アダムズで生まれた。父は元々ロードアイランド州クランストン出身の鍛冶屋アレン・ブリッグス、母はユグノーの子孫であるナンシー(旧姓ブラウン)であり、ブリッグスはこの夫妻の12人の子供の11番目だった。ブリッグスが7歳の時に、家族でバーモント州マンチェスターに移転し、その2年後にはニューヨーク州ホワイトクリークに引っ越した。家族は宗教心が篤かった。父はバプテストであり、母はクエーカーだった。両親は子供たちに聖書から宗教的な教えを与えた。 ブリッグスが14歳の時、時代は第二次大覚醒の最中にあり、特にアップステート・ニューヨークでは強い動きになっていた。ブリッグスは転換体験を味わい、バプテストの信仰に加わった。ブリッグスと伝道集会で知り合い、終生友人と政治上の仲間になったハイランド・ホールに拠れば、ブリッグスは集会でその体験について話し、聴衆からその真価を理解した喝采を得た。その信仰は個人的挙動を特徴づけた。宗教的な理想への志向を続けた。例えば日曜日まで伸ばされる連邦議会の会期に反対し、アルコール消費を控えたことだった。 ブリッグスはホワイトクリークの公立学校に散発的に出席し、クエーカー教徒の帽子職人のもとに3年間徒弟奉公した。年長の兄たちからの支援もあり、1813年にマサチューセッツ州ピッツフィールドとレーンズボロで法律の勉強を始めた。1818年にはマサチューセッツ州の法廷弁護士として認められた。まずアダムズで法律実務を開業し、1823年にはレーンズボロに移転し、さらに1842年にピッツフィールドに移った。ブリッグスの法廷活動は、正式な形式によらずに物語ることを好んだが、当時の人々は明瞭であり、簡潔であり、整然としていると特徴づけていた。 1817年、ブリッグスはレーンズボロでバプテスト教会を建てることに貢献した。その集会でハリエット・ホールと出逢い、1818年には結婚した。この夫妻にはハリエット、ジョージ、ヘンリーと名付けた子供たちが生まれた。また法律の勉強を支えてくれた兄の1人であるルーファスの孤児4人も育てた。ルーファスは1816年に死んでおり、その妻も時を措かず後に続いていた。 ブリッグスの公的生活との関わりは地方レベルで始まった。1824年から1831年、バークシャー郡北部地区の土地登記官を務めた。1824年には町事務官に選出された。1826年には高規格道路委員会の議長に指名された。その政治的な興味はヘンリー・ショーと知り合いになることで高くなった。ショーは1817年から1821年までアメリカ合衆国下院議員を務めていた。 1826年にあった刑事事件の裁判でブリッグスは広く知られるようになった。ストックブリッジに住んでいたオナイダ族インディアンが殺人容疑で起訴された。ブリッグスは裁判所からその弁護人に指名された。ブリッグスは証拠をあたってその容疑者が無罪であることを確信し、当時の者達から「陪審員に対する雄弁のモデル」と言われた弁論を行った。陪審員は不幸にもブリッグスに同意せず、容疑者を有罪にし、絞首刑となった。1830年、真犯人がその犯罪を自白した。
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