ハウ家(第1期)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 21:07 UTC 版)
「ハウ準男爵」も参照 ハウ伯爵家は17世紀の政治家サー・ジョン・ハウ(c.1594-c.1671)を祖とする一族であり、そのジョンは1660年に(コンプトンの)準男爵(Baronet, of Compton)位を授けられている。その孫スクループ(1648-1713)がノッティンガムシャー選挙区選出庶民院議員を務めたのち、1701年にアイルランド貴族としてハウ子爵(Viscount Howe)及びグレノーリー男爵(Baron Glenawley)に叙されたことで、ハウ家は貴族に昇った。 2代子爵エマニュエル(1700?–1735)は父と同様に庶民院議員を務めた。ただ、後年は財政的に困窮しており、初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズの口添えで実入りのいいバルバドス総督に就任している。彼はいとこから上記の準男爵位を継承している。 その息子である3代子爵ジョージ(1725?–1758)は英国陸軍軍人としてフレンチ・インディアン戦争に従軍し、准将まで昇進した武人である。彼は同戦争中に北米大陸・ジョージ湖付近でフランス軍と接敵した際に心臓を撃ち抜かれて戦死を遂げている。そのため、爵位はジョージの弟リチャードがこれを継承した。 4代子爵リチャード(1726-1799)は王立海軍の提督として高名であり、フランス革命戦争下における最大の海戦である「栄光の6月1日」の指揮官を務めている。彼はジブラルタル包囲戦終結後の1782年にグレートブリテン貴族としてノッティンガム州ランガーのハウ子爵(Viscount Howe, of Langar in the County of Nottingham)に叙された。 その後彼ピット内閣下の海軍大臣を務めたのち、退任時の1788年に多年の功によってハウ伯爵(Earl Howe)及びノッティンガム州ランガーのハウ男爵(Baron Howe, of Langar in the County of Nottingham)に昇叙している。このうち、ハウ男爵位には彼の娘とその直系男系男子への継承を認める特別規定が定められていた。 彼には男子がいなかったため、男系継承を要求するハウ伯爵位とランガーのハウ子爵位は廃絶した。一方でアイルランド貴族爵位のハウ子爵及びグレノーリー男爵は末弟のウィリアムが承継し、女系継承可能なハウ男爵は初代伯の娘であるソフィア・シャーロットが相続した。 第2代女男爵ソフィア・シャーロット(1762-1835)はペン・アシュトン・カーゾンと結婚したため、男爵位はカーゾン家によって承継されてゆき、現存する第2期のハウ伯爵叙爵につながる。 他方、ハウ子爵位を継いだ5代子爵ウィリアム(1729–1814)は英国陸軍の将軍であり、アメリカ独立戦争時には在北米英軍総司令官(英語版)を務めた人物である。彼には嗣子がなかったため、同人の死をもってハウ子爵位及びグレノーリー男爵位は廃絶となった。なお、この際にコンプトンの準男爵位も廃絶している。
※この「ハウ家(第1期)」の解説は、「ハウ伯爵」の解説の一部です。
「ハウ家(第1期)」を含む「ハウ伯爵」の記事については、「ハウ伯爵」の概要を参照ください。
- ハウ家のページへのリンク